人生訓と人生観

九月九日(金曜日)、雨は降っていないものの、まったく朝日の見えない、どんよりとした曇り空の夜明けである。このぶんでは昼間にも、胸の透く秋空は望めそうにない。季節、端境期特有の残暑もなく、きのうの私は、寒気に震えていた。恐れていた台風11号は、大過なくどこかに消え去った。しかしながら、このところの天候不順は、台風11号のしわざであろう。ところが、12号と13号が発生しているという。だとしたらこの先も、これらの台風の前触れをこうむり、これまでのような悪天候が続くのであろうか。つくづくもったいないと感ずる、好季節の初動である。さて、わが人生終末期にあって、私は寝床の中でいまさらながらに、こんな二つの言葉を浮かべていた。挙句、枕元に置く電子辞書に手を伸ばし、仰向けで開いた。人生訓:世間で生きていくために役立つおしえ。人生観:人生に対する観念または思想上の態度。あらら! 私は、同義語を重ねれば生まれつき・根っからの愚か者である。なぜなら私は、両言葉の区別や意味さえ確かには知らず、日和見主義に徹して平々凡々と生きてきたにすぎない。その証しには、人様から「前田さん。あなたの人生訓と人生観をお聞かせください」と問われたら、私は答えようなく赤面を晒すこととなる。すでに八十二年も生きてきて、こんなことを書くようでは、確かなわが身の恥である。結局のところ私は、人生訓を垂れたり、人生観を告げたりする資格を持たないままに、ただ生きてきただけである。生前の母は、「しずよし、何事もするが辛抱!」と言っては、私に辛抱することの大切さを言い続けていた。母は、飽きっぽいわが性癖を見越して、わが人生訓に代えて遺したのであろう。ところが、私は母の思いに背いて、さずかった人生訓を空念仏にしてすぎてきた。みずから持ちえた人生訓はない。一方、わが人生観は、もちろん母に頼ることはできず、自分自身が生み出さねばならないものである。ところがこれとて、確かなものは持てずじまいである。無理やり浮かべれば、八十二年の人生体験における悟りの人生観は、なんともなさけない「諦観と我慢」である。ネタなく、こんな身も蓋もない文章を書いて、一巻の終わりとするものである。まだ、朝日は見えないけれど、大空はいくらか明るみ始めている。文章を締めよう。「諦めと我慢」、すなわちわが悟りの人生観である。