復習「身につまされる」

 意識して新型コロナウイルスにかかわる文章を避けようと思えばネタなく、無理やり書けばこんなことしか書けない。きのうは慣用句、「狐につままれたよう」の復習を試みた。するときょう(十二月四日・金曜日)は、目覚めて寝床の中で、このことばを浮かべていた。それは、「身につまされた」ということばである。わが生涯学習は、常に枕元に置いている電子辞書すがりである。
 なぜ? このことばを浮かべていたかと言えば、言葉の響きが似ていること、さらにはことばの意味も難しいところがあるからである。そのためのお復習(さら)いであった。このことばの意味を難しくしているのは、ずばり「つまされる」ということばである。このため先ずは、「つまされる」を見出し語に置いて、電子辞書を開いた。
 【つまされる】:①情愛にひかされる。恩愛にほだされる。②(「身にー・れる」の形で)ひとごとでなく感じられて、哀れに思われる。
 次には、ずばり「身につまされる」を見出し語に置いた。
 【身につまされる】:わが身にひき比べる。特に、他人の不幸などがひとごとでなく思われる。
 私は長年、多くの文章を書いてきた。かつてはあらかじめネタを浮かべて、四百字詰め原稿用紙五枚分、すなわち二〇〇〇字を基準にして書いていた。もちろん、いくらか筋書きを浮かべて書いていた。ところが現在は、こんなに長い文章を書くことは滅多にない。それと同時に現在は、起き立ての書き殴りや、走り書きに甘んじている。このことでは、端(はな)から文章を書く姿勢が大違いである。もとより、文章の出来自体、大違いである。唯一、似ているところは、過去、現在ともに、書いた量の多さである。それなのに私は、今なおありふれた慣用句、そしてフレーズ(成句)にさえ、電子辞書すがりである。わが掲げる生涯学習のせいとは言え、ほとほとなさけなく、また体(てい)たらくきわまりない。きのう同様にこんな面白味のない文章は早々に閉じて、同時に読者各位様にはかたじけなく思うところである。
 さて、文章を用いて、再び復習を試みる。新型コロナウイルスの感染に遭われた人の悔しさは、「身につまされる」思いである。きのうに続いて、新型コロナウイルスのことは書かずに済んだ。しかしながら私は、長い夜の過ごし方を案じている。