「無題」にしようかな

 十二月五日(土曜日)、いまだに真っ暗闇だけれど、長い夜の夜明け間近にある。悪夢に魘されず久しぶりによく眠れた。私にすれば願ってもない快眠! と言えるであろう。もちろん起き立ての気分は、さわやかである。人生にあって身近なことでは、快眠ほど素敵なものはない。起き立ての確かな実感である。しかしながら私の場合は、すべてがいいわけでもない。なぜなら、眠りすぎたせいで目覚めが遅くなり、執筆時間に焦りをおぼえている。その祟(たた)りには、指先まかせの走り書きと書き殴りの文章を書く羽目に陥っている。このことではやはり、現在のわが気分は、不愉快なところもある。しかし、快眠など滅多にないことだから、すこぶる付きの良い目覚めである。
 きょうもまた、飽き飽きしている新型コロナウイルスのことは、避けて通りたいという思いがある。ところが、そう粋(いき)がっているとやはり、書くネタはない。現在のわが日常生活は、確かに新型コロナウイルスの感染恐怖に翻弄(ほんろう)されている。おのずからテレビや新聞などでは、新型コロナウイルスにかかわるニュースを見聞するばかりである。
 これに加わるものでは、『鬼滅の刃』という、言葉と文字がある。私は、これにはまったく無縁、いやまったく無頓着(むとんちゃく)にうち過ぎている。このため、この物語の内容など、ちんぷんかんぷんである。それでも、新型コロナウイルス禍にあっては、ありがたくかつ微笑(ほほえ)ましいニュースであり、社会現象でもある。そして、まったく無縁の私でさえ、気分がほっこりと、和むところがある。それほどに現在の私は、明るいニュースに飢えていると言っていいのかもしれない。
 いつものことながら、脳髄にネタをめぐらすことなく、指先まかせに書いている。すると、これまたいつものことだけれど、たちまち立ち往生に見舞われて、この先が書けない。幸い身が冷える夜明け前ではない。このことでは泣きべそをかくことなく、夜明けを迎えそうである。確かに、このうえない自然界の恵みに身を置いている。そうだとすれば四の五を言わず、しばし快眠後の夜明けの気分を貪(むさぼ)り続けたい思いである。
 無理矢理この先を書けば、文章の不出来で快眠気分が殺がれそうで、書かない。いや、書けない。走り書きと書き殴りは、とんとなさけない。いやいや、かたじけなく、詫びるところである。まだまだ、とうぶんのあいだ、夜は明けそうにない(5:37)。焦る気分に急かされて、へんてこりんの文章を書いてしまい、ミスったかな……。気分は、ちょっぴり憂鬱である。実のない文章ゆえに題のつけようなく、「無題」にしようかな。