人、鳥(鶏)、二様のウイルス惨禍

「現在ページ」は日に日に「過去ページ」へ移り、「未来ページ」はまったく無縁である。十二月九日(水曜日)、起き立てのわが思いである。
 さて、人間界は新型コロナウイルスに翻弄され、鳥類は鳥インフルエンザウイルスの脅威に晒されている。千万羽を超える鶏(ニワトリ)の殺処分ニュースは、鶏の命と生産者の悲惨な胸の内をおもんぱかり、泣くに泣けない悲しいニュースである。もとより、生きものの鶏に託さざるを得ない生業(なりわい)にはつらいところがある。いやいや、殺処分ニュースを見聞するたびに私には、双方すなわち鶏と生産者のつらさが身に染みる。なぜなら、私にとってのニワトリは、人間同様だからである。
 子どもの頃からこんにちにいたるまでわが命は、ニワトリに養われてきた。子どもの頃の私は、「わが家では、ニワトリを養っている」と、言っていた。すなわち、持ちつ持たれつそれほどにニワトリは、わが家とわが身一体の大事なものだったのである。
 わが家のニワトリは、育てて卵を産ませて、それを売りさばいてお金を得る、役割ではなかった。いや、わが家のニワトリには、もっと直接的にわが家の家族の命を育む役割があった。その役割を担っていたのは、座敷先につらなる縁の下で、養っていた数羽のニワトリだった。産み立てほやほやの卵を急ぎ足で取りに行くのは、ほぼ私の役割であった。そしてこの行動は、青大将(蛇)との競争でもあった。
 現在、世の中の食生活において、「美味しい、旨い」の連発で、にわかに「卵御飯」が持て囃されている。こう光景をテレビで垣間見ると私は、ちゃんちゃら可笑(おか)しいと思うところがある。なぜならそれは、産み立ての生温かい卵による、卵御飯の美味しさに味を占めているからである。
 運動会時の弁当箱の中心に見栄え良く置かれた、白地に赤の半身の茹で卵の思い出は、私にまつわりつく母恋慕情と郷愁の最上位に君臨している。しかし、こんなままごとみたいな思い出は、鶏の殺処分のニュースに出合えば、たちまち雲散霧消(うんさんむしょう)となる。なぜなら、ニワトリの命と生産者の嘆きをかんがみて、木っ端みじんになるからである。
 人間界における新型コロナウイルス禍、そして鳥類における鳥インフルエンザウイルス禍、共に比類なき悲しい出来事である。なかんずく、生産者の哀しみには、殺処分ニュースのたびに胸突かれる思いである。もちろん、殺処分大わらのニワトリにも、鳥で済まされないつらさがある。きょうの表題は、「人、鳥(鶏)、二様のウイルス惨禍」でよさそうである。起き立ての私は、つらい心情に苛(さいな)まれている。