長い夜の終盤に身を置いて

 十二月十日(木曜日)、長い夜も「冬至」(十二月二十一日)へ向かって、終盤にかかっている。現在(3:43)は寒くもなく、身体的には凌ぎ易いいまだ夜中にある。すでに一時間近く、メディアの報じる配信ニュースを読み漁っていた。ニュースの多くは、新型コロナウイルにかかわるものばかりである。今さら言わずもがなことだけれど新型コロナウイルスは、日本社会にのみならず世界中の人々の営みを変えている。終息までにはなおどんな変化がもたらされるのかと、いっそう恐々(きょうきょう)するばかりである。
 英国では待たれていたワクチンの接種が始まったと、伝えられている。しかしながら拙速のきらいもあり、副作用を恐れてのおっかなびっくりの模様が伝えられてくる。懸念されていた副作用が顕われて、必ずしも万々歳とはいっていないようである。それでも、新型コロナウイルスの感染恐怖下にあっては、副作用に慄(おのの)いても接種せざるを得ないところがある。すなわち、人みな、悩ましい決断を強いられている。
 もし仮に、日本社会にもワクチン接種が可能となったとしても、効果あるいは副作用の見きわめつかないあいだは、私は接種を渋るであろう。こんなあやふやな状態にあっても、あわてふためいてワクチン接種がされ始めているのは、世界中が新型コロナウイルスに手を焼いている、確かな証しと言えそうである。
 新型コロナウイルスにかかわる項目の一つには、家庭内感染を恐れて、家庭(家の中)でもマスク着用が必要(強要)との記事があった。わが家であれば、夫婦の会話にあってもマス越しを強いられそうである。もはや人間社会は、疑心暗鬼の渦の中にある。「パパ。コロナうつるから、マスクしなさいよ!」と言われたら、家庭とは言えそうにない。いやいや、他人同士(他人同居)の家庭生活と、言えそうである。
 長い夜にあっても別段、書くことも、書きたいこともなく、これにて結び文とするところである。この先、夜明けまでのあり余る時間は、わが人生の来し方にぽつねんと耽(ふけ)るつもりである。あえて、行きし方(行く末)をめぐらすと、命切れのことばかりで、ちっとも面白くない。長い夜に長居をしたせいか、寒さを感じていなかった身体は、いくら冷えている。