十二月十二日(土曜日)、顔に浸す蛇口の水が冷たくて体が震えた。寝起きが遅れて、五時半近くにパソコンへ向かっている。だから、慌てふためいている。起きれば、文章を書かなければならない。このことは、わが身には途轍もなくプレッシャーである。そしてできれば朝刊が届くように、夜明け前には書き終えたい思いをいだいている。
ところがこれまた、私には大きなプレッシャーである。それでも書き殴りを始めて書き終えればこんどは、文意はもとより文脈の乱れが気に懸かる。能力の無い私自身に課した文字どおりの日課とは、呪縛(じゅばく)いや自縛(じばく)そのものである。このため私は、パソコンに向かうおりにはいつも、もう書くのを止めたい! と、思っている。もちろん、こんな後ろ向きの姿勢では、心もとない文章へ成り下がるばかりである。
こんななさけない心地にまみれて、私は途方もない年月を書き続けてきたのである。それはなぜだろうか? と、自問を試みた。すると、欲張って三つの答えが浮かんでいる。一つは、大沢さまのご好意に感謝し、だからそれに背いてはならないという、人間固有の道議である。一つは義理立ての読者、すなわち友人・知人そして未知の人たちとの出会いを絶ちたくない思いからである。最後の一つは、書き殴りであっても書き続けることによって、ほかになんらの取り柄もない私に、いくらかの誇らしさを感ずるところがあるからである。実際にはそれは、どうにか生来の三日坊主を克服し、生きる屍(しかばね)を免れただけのみすぼらしい自惚(うぬぼ)れにすぎない。
この時間にあって文章を急かせるのは、ほぼ同時間帯に位置する、もう一つの日課すなわち道路の掃除がある。ところが、この時期の長い夜にあっては、いくらか道路の掃除にたいする焦りは消えている。現在、時間的には六時をちょっぴり超えたけれど、道路に向かうにはいまだに夜明け前にある。それでもこんな文章に甘んじ、私は夜明けを待って道路の掃除に向かうつもりでいる。
慌てふためいて、どうにか書き殴りの文章を終えた。それでもやはり、文章を書くのはもう止めたいと、思っている。一縷(いちる)の幸いは、毎度の思いだから、案外あすへ繋がるかもしれない。実の無い文章を書いて、なさけない、かたじけない、思いで結び文とするものである。
まだ、夜が明けない。いや、現在の私は、長い夜に救われている。「冬至」(十二月二十一日)までは、いよいよカウントダウンの始まりである。