十二月十三日(日曜日)、現在デジタル時刻は2:43と刻まれている。一基の蛍光灯の灯る部屋の中は、静寂にいまだ真夜中の佇まいである。わが目は輝いているわけではなく、眠気まなこ状態にある。習性にしたがって目覚めたため、起き出して来たにすぎない。おそらく、キーを叩き終えれば寝床へとんぼ返りを試みるであろう。なぜなら、そうでもしなければ長い夜はもたない。しかし、再び寝床へ就いたところで瞼は閉じずに、悶々として夜明けを待つばかりであろう。
今、心中に浮かんでいることをランダムに書けばこんなことがある。新型コロナウイルスのせいで人の世は、末世の感を呈している。日本社会にかぎればきのう(十二月十二日・土曜日)だけで、とうとう全国の感染者数が三、〇〇〇人を超えた。恐るべき加速ぶりである。年の瀬も新たな年の正月も、日々の感染者数値に怯えることとなりそうである。分科会の尾身茂会長は、年の瀬と正月の日本社会にあっては、「静かな日常」を懇願されている。私流にとらえれば感染の蔓延を恐れて、「人は出歩くな!」、ということであろう。すなわち、分科会会長の立場からすれば、感染を防ぐにはもはやこの提言しかないのであろう。つらく、また身を超えた警告であろう。そうであればやはり国民は、この警告に応ずるべきであろう。
もう一つ浮かんでいるのは、呆れてものが言えないことばである。最初、このことば「ガースー」とは、何だろうと思っていた。ところが、菅総理がみずからの名、すなわちスガを「ガースー」と言われて、笑みを浮かべて話し始められたという。すると、新型コロナウイルス禍にあっては、あまりにも緊張感のない不見識なことばとして、そののちバッシングをこうむられているという。確かに、バッシングを受けられることには私でも、「さもありなん!」、と思うばかりである。あえて、古来のことばを重ねれば、「恥を知れ!」、ということば浮かんでいる。すなわち、駄じゃれにさえならない、人柄(人品)崩しのことばと言えそうである。
手元の電子辞書を開いた。『開いた口が塞がらない』:「あきれてものが言えない」。学童の頃におぼえた成句を、総理のことばから浮かべるようでは、ひとりの国民としても大恥晒しである。この先書けず、尻切れトンボに寝床へとんぼ返りである。