「人間は考える葦である」(パスカル)。この意味するところは珍紛漢紛(ちんぷんかんぷん)である。しかし、私も人間のはしくれだから、雑駁(ざっぱく)な感情は持っている。そして、日々それに悩まされ続けている。もちろん、多雪地方の人たち、はたまた新型コロナウイルスの感染に罹られている人たちの苦しみをおもんぱかる気持ちは持っている。今の私は、寒気に音を上げそうになっている(3:28)。人間ゆえに、大小の苦しみはだれにでもある。万物の霊長と崇(あが)められるけれど、実際のところは苦しみ多い人類と言えそうである。
年の瀬、十二月十八日(金曜日)、私はこんな思いをたずさえて起き出している。語るや書くに落ちる、まったく「バカじゃなかろか!」である。この誘因は起き立ての寒さに遭って、泣きべそを書いているせいである。私は暴風雨や嵐に耐え忍ぶ「葦」の強さが、妬(ねた)ましい弱虫へ成り下がっている。おのずから「ひぐらしの記」は、風前の灯火(ともしび)にある。
ところがきのうは、ひぐらしの記の書き手冥利に尽きる、飛んでもない恩恵にあずかったのである。具体的には、きのう書いた『感涙! 感謝!』の文章に書き尽くしている。すなわちそれは、平洋子様のご投稿文のおかげで、闘病中の恩師の近況と近影を知る幸運にさずかったのである。まさしくそれは、「継続は力なり」からもたらされた、うれしいオマケだった。
能無い私にとってひぐらしの記を書き続けることは、もとより苦難の業(ごう)である。ところが一方、私はひぐらしの記を介在して、多くの幸運にありついている。それらの中でもきのうたまわった恩恵は、ピカイチ! と、言えるものであった。だったら、寒さにへこたれてはおれない。しかしやはり、そんな強がりは止めて、いや寒さに負けて、この先は書き止めである。ほうほうのていで、三十六計逃げるが勝ちの心境である。