「冬至」

「冬至」(十二月二十一日・月曜日)。私にはきわめて感慨のつのる日である。一つは、「夏至」と対比されて一年のなかで、半年ごとの折り返し点である。一つは最も夜間が長く、そのぶん最も昼間が短い日である。さらに加えれば冬至にまつわる古来の風習、すなわちユズ風呂がある。ユズ風呂に息災を願うのは、もちろん心もとないところがある。けれど、年の瀬にあって心の和むところはある。
 わが家の庭中のユズの実は、冬至に合わせて黄色く熟れている。しかしながらユズの実の出来は不作で、両手の指の数ほどしか着けていない。これではきょうは、わが家だけのユズ風呂にしかならない。鈴なりのときのユズの実は、向こう三軒両隣へ持ち込んでいた。すると、義理立ての微笑み返しに出合って、寸時心が和んだ。
 ところが、生りの不作をこうむりきょうは、ユズの実にすがるささやかな近所づきあいは諦めざるを得ない。ちょっぴり、寂しい冬至の夜明け前を迎えている。そのうえ現在は、わが身に堪える寒波の訪れに遭っている。冬至はこの先、本格的な寒波の訪れのシグナルでもある。
 一方では寒波に耐えてそれを乗り越えれば、暖かい春の日が訪れる。そのため冬至にあっては、まさしく一陽来復の思いつのるところがある。これらのことは冬至にまつわるわが感慨であり、同時に時のめぐりの速さ(感)に慄(おのの)くばかりである。もちろん私は、迷信とも言えるユズ湯など当てにすることなく、不断から無病息災を願っている。しかしながらままならず、わが日常の営みは病に怯(おび)えるばかりである。
 現在は、胃部不快感に怯えているところもある。そしてきょうは、妻と相成して患者に成り下がり、そろって歯医者の予約日である。人間にとりつく四苦、すなわち「生・老・病・死」を強く思わずにはおれない冬至の朝の訪れにある。うっすらと、長い夜が明けつつある。