きのう、「冬至」(十二月二十一日・月曜日)が過ぎた。きょう(十二月二十二日(火曜日)は、半年先すなわち令和三年(二〇二一年)の「夏至」(六月二十一日)へ向かってのスタートとなる。遠い先のことのようだけれど、半年など短い時のめぐりである。特この先、新型コロナウイルスの終息が見えないなかではなおさらである。確かに、そのことに気を取られていると、アッというほどもない短い時のめぐりを再び体験することとなる。なぜならこのことは、今年すなわち令和二年(二〇二〇年)で、身に染みて体験している。
日に日に伝えられてくる感染者数の数値に怯えているうちに、半年はおろか早や一年が過ぎようとしている。これに応じてわが余生は、速足で持ち時間を縮めるばかりである。きのうの私は、暮れ急ぐ昼間のうちに「ユズ風呂」に浸かった。浸かりながら、浅ましく無病息災を願った。もちろん、浮かぶユズに願掛けをする人間の強欲さも味わっていた。
浮かぶユズの実を揺らし近づけて、手に取り鼻先へ近づけた。たちまち、ユズの香りに心(気分)が和んだ。すると私は、古人(いにしえびと)の知恵に感嘆した。現在の世は、人工的に香りをつけて商品化されている。ところがそれらの香りは、さりげないユズの香りに比(くら)べ負けのところがある。ユズ風呂は願掛けなど欲張らずこの香りに、慌ただしい年の瀬の気分を和めることこそ、それで十分の価値があると言えそうである。そのうえ、暮れ急ぐ昼間のうちにユズ風呂に浸かれば余計、冬至にまつわる思いは切々たるものがある。
私はユズの木を仰いで、十個余りをとった。リスに残す実は一つもなく、全部とり終えた。傍らの妻は、隣と向かいの二軒に、二つずつ持って行った。生る年に比べれば、三分の一程度の配りにすぎない。それでもどうにかわが家の年中行事を済まして、わが夫婦の皺だらけの顔は、ちょっぴり笑顔になった。ユズの実の役割は、ユズ風呂だけではない。