表情と言葉

 新型コロナウイルスの感染者数は、日々いっそう勢いを増している。危機に瀕してそれを止める訴えの表情と言葉は、もとより大きな力となる。テレビ画面を通して見聞きする医療関係者の表情と言葉には、だれしもにも切々たる必死さが表れている。その訴えに応じて私は、自分自身は感染をこうむるような迷惑行動や行為は避けようと決意する。言うなればこのところの医療関係者の国民にたいする感染防止の訴えは、身の縮む思いである。
 昨夕(十二月二十五日)六時より、テレビ画面には菅総理の記者会見模様が放映された。分科会の尾身茂会長をともなっての記者会見であった。おのずから私は、感染防止を国民にたいして訴える、お二人の表情と言葉の勢いを比べる幸運に恵まれた。特に私は、菅総理の表情を凝視し、言葉に聞き耳を立てた。その理由は先日のテレビニュースにおいて、中川医師会会長をはじめとする医療関係者と菅総理の表情と言葉において、菅総理に憤懣やるかたない思いをいだいていたからである。
 前者のそれには、猛犬に襲われる怖(こわ)さが漲(みなぎ)っていた。一方、菅総理の表情は普段と変わらず凪(なぎ)状態で淡々として、国民へ訴える言葉は犬の遠吠えを聞くほどに緊張感のないものだった。
 ニュースの映像は年末年始を控えて、国民いたして感染防止にいっそうの協力を求めることと、当事者としての並々ならぬ決意表明であった。双方を比べれば表情にはもちろんのことと、言葉にも明らかな違いがあった。すぐさま私は、菅総理の言葉にがっかりし、たちまち腹が立った。それは「なんとか、感染を押さえていただきたい……」という、言葉だった。先ずは。「なんとか」という言葉の曖昧さであり、頼りなさである。私は「なんとか」など使わず、「なんとしても」あるいは「どうしても」という言葉を使ってほしかったのである。もちろん、強い決意を表す言葉はほかにもあまたある。このときに用いる言葉として「なんとか」は、最もまずい言葉である。なぜなら、当事者としての必死さはまったく伝わらない。輪をかけて「いただだきたい……」という言葉は人任せであり、菅総理自身の決意はまったく聞き取れない。
 ところが、このときわが胸に生じたがっかり感は、きのうの会見においてはいくらか和らいだ。具体的には表情と声に緊張がいくらかあふれていたからである。そのうえ、「なんとか」は、わが意とする「なんとしても」に、置き換わっていたのである。しかし、尾身会長の必死さに比べれば菅総理のそれは、もちろん表情も言葉もまだまだである。極め付きは「雲泥の差」という言葉である。加えて、訴える表情、すなわち身体のパフォーマンスも足りない。
 私は尾身会長の必死な訴えに呼応して、静かな年末年始を肝に銘じている。危機に瀕し訴える表情と言葉は、考え抜けば無償の武器となる。