再始動を果たしているという自信はない。それに向かっての、助走とも言い切れない。強いて言えば、おっかなびっくり感をいだいての試運転である。試運転にはエンストがつきものである。こんな不安な心持をたずさえて、私は頓挫明けの四日目の文章を叩き始めている。寒気からかなりの暖かさへの季節替わりにあっても、豹変という言葉は不適当であることを知った。一方、豹変に変わる言葉は、いまだに思いつかないままである。悲しいかか! わが浅学菲才の脳髄のゆえである。
節分そして立春と続いてきょう(二月四日・木曜日)は、文字どおり春の出で立ち初日にある。カレンダーと季節めぐりは、確かに人間とは異なり嘘を吐かない。かぎりなく寒気を知り尽くしているわが体感さえ、まったく寒気を感じていない。なんたる! 季節の恵みであろうか。この恵みに誘われなければ私は、寝床から起き出すことはできなかった。身体が寒気を嫌う上に、気分が萎えているせいである。すると、どうにか起き出して来て、五月雨式にキーを叩き始めているのは、寒気が緩んでいるおかげである。さらには、いたずら書きを始めているのは、気分をまったく殺ぎたくないためである。言うなれば文章の体を為さない、まったくの自己都合にすぎない。
過ぎた一月は文章を書く気分を失くして、わが本来の怠け者に終始した。しかしながらこの間にあっても、原点返りの一縷の努力は試みていた。実際のところは細々だけれど、気力の喪失を防ぐためのおさらいを試みていた。具体的には電子辞書に加えて、久々に紙の国語辞典をひもといていた。さらには衰え続ける脳髄を刺激するために、あえて「難読漢字辞典」(三省堂編修所)を手にしていた。もちろんこれは、わが掲げている「語彙の生涯学習」の途絶を恐れていたからである。
パソコン上では、「一日一膳」のごとくに、一日数語の英単語の復習を試みている。こんな子供騙しみたいな学習で、わが凡庸の脳髄が賦活するわけではない。手元に玩具がないための「玩具代わり」にすぎない。しかしながらこれらには、いくらかの効用があった。なぜなら、ズタズタにやる気が殺がれるのを防いでくれたのである。これらの行為さえも退けていたら、もはや私は生きる屍(しかばね)同然である。
きょうは恥をあからさまにしてまでも、こんないたずら書きを留めた。それは、再度のエンストを免れたい思い一入(ひとしお)のためである。約十分間、文章とも言えない駄文を叩いて、心底より詫びるところである。心中はいまだに冬の寒気で真っ盛りである。しかし、身体には暖かい春が来ている。季節は節分そして立春が過ぎて、現在は春お出ましの自然賛歌の夜明け前にある。ただ惜しむらくは、同時に人間賛歌が歌えないことである。