とうとう、春が来た。気象庁はきのう(二月四日・木曜日)、関東地方に「春一番」が吹いたと、発表した。オマケに、統計を取り始めた一九五一年以降では、最も早い記録という。自然界は春夏秋冬の四区分に沿って、淡々とめぐっている。ところが人間界はそうはいかずに、非難囂囂(ひなんごうごう)の声の嵐が吹いて、めぐっている。すると、みずからを戒めるものとして先ずは、「人の振り見て我が振り直せ」という、成句が浮かんでいる。次には、「晩節を汚(けが)す」という、成句が浮かんでいる。ほかにも、芋蔓式にさまざまな成句が浮かんでくる。すなわち、森会長の言葉にまつわるざわめきは、わが「語彙の生涯学習」における、現場主義には恰好(かっこう)の教材をなしている。
人生の引き際にあって、好意的に用意されていた「男の花道」はいとも簡単に汚(よご)れて、崩れ落ちそうである。東京五輪・パラリンピック組織委員会の森喜朗会長が口を滑らした。華々しい会長の座は、文字どおり元総理にたいする花道であり、同時にやりがいのある重責である。これに応えて森会長は、みずから「老骨に鞭打って」と言われて、これまで開催に向けて苦労を重ねられてきた。
確かに私は、森会長の年齢をかんがみて就任されて以来その重責をおもんぱかり、同時に絶えず労(ねぎら)い心をたずさえてきた。そして森会長は、ようやく苦労の出口へたどりつかれたのである。その矢先にあって国民から非難囂囂をこうむられることには、さぞかし残念無念と同時に心外この上ないであろう。このことではもちろん、私は甚(いた)く同情心をかきたてられている。ところが半面、このたびの口の滑らかしには、「弘法にも筆の誤り」とは言えそうにないところもある。なぜなら、「またか!」という、思いがよみがえるからである。すなわち、森会長のこのたびの失言には、ご自身の「身から出た錆」だと、突き放して観念せざるを得ないところもある。
人だれしもにも、失言や失態はつきものである。もちろん森会長の失態は、厚顔無恥きわまる政治家・河井夫妻とはまったく別物である。だから私は、非難囂囂に悪乗りするつもりは毛頭ない。ただ単に私は、語彙学習の現場主義の教材として、さまざまな成句(言葉)をめぐらしているにすぎない。
「口は禍の元」もとである。同義語としては、「口は禍の門」のほかかぎりなくある。たとえば、「雉(きじ)も鳴かずば撃たれまい」、さらには「物言えば唇寒し秋の風」などが浮かんでくる。口の役割の筆頭は、生存の糧(かて)すなわち食べ物(食糧・食料)を入れ込むことであろう。もちろん、褒め言葉を発する役割もある。ところが、ところが、厄介なことに口には、人を貶(けな)したり、みずからを褒めたり(自惚れ)、言わずもがなことを言ったりする、無用の悪癖がある。結局、口は利害半ばする器官である。そして、害で最も恐ろしいことは、良いにつけ悪いにつけ人格(人品)の証しが、もろに世の中にしゃしゃり出ることである。
私は、生涯学習の生の教材にありつけたことには、いくらかの感謝の念をたずさえている。「人の噂も七十五日」。森会長の「ひとふんばり」を願うところである。七十五日も続けば、ちょっと、長すぎるかな!。人間界の雑音にはお構いなく、うららかな春がめぐって来た。