目覚めは、「しどろもどろ」

 ばかじゃなかろか! 目覚めると私は、思いつくままに「人の歩き方」(擬態語)の数々を浮かべていた。最初に浮かんだのは、人生行路における文字どおり歩き始めとも言える、赤ちゃんのヨタヨタ歩きである。次に浮かんだのは、その終焉間際に訪れるヨロヨロないしヨタヨタ歩きである。この間には私を含めて人さまざまに、いろんな歩き方が強いられる。本当のところは、幼年、少年、青年、壮年、そして高年(高齢)などと、時代を分けた歩き方を浮かべたくなっていた。
 人の歩き方には、時と場合、はたまた用事や用件の有る無しによっても、歩き方の違いがある。しかしながら私は、こんな区別などできずに、思いつくままに浮かべていた。もちろん、人それぞれに歩き方を問うたら、まとめてどれだけあるのか? 測り知れない。
 さて、わが凡庸な脳髄に浮かんできた歩き方は、ランダムにざっとこんなところである。それらは、先の三つに加えてこれらである。ドタドタ、ドカドカ、スタスタ、ウロウロ、スゴスゴ、ソロソロ、テクテク、トコトコ、トボトボ、ノソノソ、パタパタ、フラフラ、ユラユラ、ブラブラ、ペタペタ、ドシドシ、ソロリソロリ、などである。これらに日本語の表現を浮かべれば、速足、駆け足、急ぎ足、鈍足(のろあし)、さらには抜き足、差し足、忍び足、などとかぎりなくある。だからこれらにあっては、わが脳髄の限界がさらけ出されてくる。
 この頃の私は茶の間のソファに背もたれて、窓ガラスを通して周回道路をめぐる老若男女の歩き方を眺めている日が多くなっている。それは余儀ない妻の世話や、春が来た証しでもある。おのずから、携帯電話の示す一日の歩数が、二〇〇歩前後の日もざらにある。
 きのう(二月五日・金曜日)の私は、黒砂糖まぶしのカリントを間断なく口へ運びながら、茶の間の窓からひねもす(終日)人様の歩き方を眺めていた。言うなれば春の暖かい陽射しを浴びて、のんびりと「日向ぼっこ」に興じていたのである。それは、わが子どもの頃に垣間見ていた、隣の小母さんの真似事でもあった。
 子どもの頃の私は、隣の庭へ出かけて、近所の遊び仲間たちと、よく独楽(こま)やカッパ(メンコ)を打っていた。そのとき眺めていた小母さんの姿は、原風景のままに今なお脳裏から離れない。たぶん、私は見た目ののどかな風景に憧れていたのであろう。実際のところの小母さんは、痛々しいリュウマチを患っていた。そのせいで私は、小母さんの歩き方を見ることはなかった。小母さんはいつも、「しいちゃん、遊びに来たばいね!」と言って、座敷や板張りの上を「いざり」(膝行、躄)足で、ニコニコ顔で近寄られていた。優しい小母さんは、ほどなく亡くなられた。今なお絶えることのない、優しい小母さんの面影である。
 確かに、歩き方は人生行路の写し絵である。わが足は日を追って、ヨタヨタ、ヨロヨロになりかけている。やがては時々立ち止まったり、杖にもたれることとなる。ドスン(擬声語)と音を立てて、路面に這いつくばらなければ御の字である。文章はいまだ再始動にありつけず、これまたヨロヨロ、ヨタヨタである。