父、母、慕情

 茶の間のソファで暖かい陽射しを背に受けて、「日向ぼっこ」に明け暮れていると、生前の父と母の面影が眼前にありありとよみがえる。このことでは私にとって早春のこの時期は、なにものにもかえがたい「至福の時」である。
 過ぎた「節分」(二日)そして「立春」(三日)を境にして、私は早春の陽射しの暖かさに浸り続けている。もちろん、春の訪れは昼間の陽射しの暖かさだけではなく、私に昼夜共に心地良さを恵んでいる。二月七日(土曜日)の夜明け前、わが身体にはまったく寒気が遠のいている。なんという季節めぐりの恩恵であろうか。寒気に極端に弱い私には、まさに「春、様様」である。
 わが子ども頃のわが家の生業(なりわい)は、水車を回して精米業を立てていた。同時に、農家として父や母そして長兄夫婦は、三段百姓に勤(いそ)しんでいた。水車と農家、どちらが主従とも言えず、相成して大家族の一家を支えていた。こんな記憶と思い出を残して私は、高校を卒業すると生地を離れて、東京へ飛び立った。それは、昭和三十四年(一九五九年)三月、若き十八歳のおりである。ところが、のちに顧みればこのときこそ、今では呼び名を替えた故郷(ふるさと)からのれっきとしたわが巣立ちの月であった。その前月の二月に私は、大学受験のため上京した。受験に向かう門出にあっては、父は掛かりつけの村医者・内田潔医師の診断で危篤状態と告げられて、病床に横たわっていた。私は、上京と受験を躊躇した。父の病床を囲む長姉と長兄そしてその連れ合いたちは、「行けばええたい、早よ行かんと遅れるぞ!」と、急かした。母は、もどかしそうに無言を装っていた。私は、「父ちゃん、行ってくるけんで、頑張っていて!」とも告げられず、病床を何度も振り返りながら、方々に精米機械の据わる土間を急ぎ足で抜けて、門口を出た。あふれ出る涙は、詰襟の学生服の袖と、拳(こぶし)で拭いた。私は父の五十六歳時に誕生であり、そのためこのときの父は、すでに老身の上に心臓の病を重ねていた。幸いにも私は、合格の吉報をたずさえて一度、わが家に帰った。このときの父は、子どもたちが金を出し合って買い求めた、フワフワのマットレスの上に半身を起こしていた。そして、玄関口から走りで来る私に目を留めると、やつれた姿で手を叩いて迎えてくれた。「しずよし、がんばったね!」の声出しは叶わず、涙目の無言の両手叩きだった。
 そののちの父は、長患いの末に、わが大学二年生の暮れ(昭和三十九年十二月三十日)に、「チチシヌ」の電報が届いた。このときの私は、東京で三人協同で八百屋を営む次兄、三兄、四兄たちに交じり、歳末商戦の手伝いの真っただ中にいた。父の葬儀にはしばらくふるさと帰りから遠ざかっていた四兄がひとり、代表して向かった。このため、わが脳裏に残る父のこの世における最後の姿は、棺の中ではなくマットレス上のいまだ生身の優しいひとコマである。このことでは当時の悔しさを跳ねのけて、今では勿怪(もっけ)の幸いに浸っている。
私には目覚めると、常に枕元に置く電子辞書へ手を伸ばす習性がある。そして、知りすぎている言葉、あるいはうろ覚えの言葉の復習に余念がない。今朝の目覚めには、精米業と農家の生業ゆえに、すでに知りすぎている言葉を見出し語にして、電子辞書を開いた。米(稲)には、二大別の品種がある。一つは「粳米(うるちごめ)」、一つは「糯米(もちごめ)である。
 「粳米・粳」:炊いたとき、糯米のような粘りけをもたない、普通の米。うるごめ。うるしね。うるちまい。
 「糯米・糯」:糯稲からとれる米で、粘りけが強く餅や赤飯とするもの。もちよね。
 こんな知りすぎている言葉をあえて紐解いたのは、この季節すなわち早春にあって、父と母へ強くつのる慕情のせいである。この時期の母は、草団子やヨモギ団子、さらには雛祭りを控えて色鮮やかな雛あられや菱形餅づくりに精を出していた。言うなれば母はせっせと作る人、一方の父はせっせとそれらを頬張る人だった。
 「仲のよいことは美しきことかな」(武者小路実篤)。確かに、見た目美しい光景だった。先妻を病没した父は、四十歳で年の差十九で二十一歳の後継の妻(わが母)を迎えていたのである。殴り書き、走り書きするには、なんだか惜しくて、咄嗟の切ない題材だった。またのついでに……、いや、私には自分史を書くつもりはない。なぜなら、書く価値なく、ただぼうとして生き長らえてきただけだからである。
 寒気の無い春はいいなあ……、ほのぼのと春霞の夜明けが訪れている。