これまで、私は常夏(とこなつ)と言われる「ハワイ」へ行ったことはない。この先、行かずにわが人生は閉じることとなる。冬の寒さを嫌って夏好きの私には、一度くらいは行ってみたいと、ずっと憧れて夢見てきたハワイである。実際にも私は、常々どんなにか素敵なところであろうかと、夢を膨らまし続けてきた。ところが、猫も杓子も隣家へ出かけるほどに容易なグローバル時代にあっても、私は出かけずじまいである。このことだけでもなんと、体たらくなわが人生であろうかと、歯ぎしりするなさけなさである。
こんな思いが高じているせいなのか? 私は、こんな馬鹿げた思いにとりつかれている。それは人工的あるいは人為的に、季節の冷凍保存が利けばいいなあ……、という思いである。寒い冬にあっては夏に解凍し、ときには冬景色を見たいと思えば、冬に解凍できればいい。もちろん時々の好みに応じて、春にも秋にも解凍できればいい。ところがこの時季にあっては、この思いはバッサリと断ち切られている。なぜなら今の私は、春夏秋冬すなわち、この時季の冬から春への季節替わりの心地良さに酔いしれているからである。やはり人生は、安楽ばかりでは味気ない。苦難に耐えてこそ、晴れて悦びに浸れるところがある。
かつての映画の題名を捩(もじ)れば、『喜びも悲しみも幾年月』(松竹映画、灯台守物語)が思い出されてくる。つまるところ季節には、人工や人為を仕掛ける必要はなく、文字どおり自然体であってほしいと、願うものがある。この頃は科学の進歩という美名の下、先陣を競い合う国、そしてその成功に快哉(かいさい)を叫ぶ人たちが相まじり、宇宙空間のみならず果てしない宇宙全体が脅かされている傾向にある。宇宙くらいは手をつけずに、そっとしてほしい。だから私には、まったく腑に落ちないところがある。
なぜなら、地球上から日に日に、ロマンが消えつつあるからである。見上げる空や星座には、スペースシャトルや飛行士、まして国のメンツや経済力など無縁であってほしいと、願うところである。下種の勘繰りをめぐらせれば現代の世は、地球上から「手つかず」の良さが失われて、本末転倒の時代になりかけているように思えるところがある。
こんな思いをたずさえることは、日常茶飯事にも多々ある。最も卑近なところでは、私は普段の買い物のおりに、こんな思いをたずさえている。今や、野菜や果物にあっては、「春、夏、秋、冬」という、季節替わりの「旬(しゅん)」を放逐し、年から年じゅう売り場に出ずっぱりである。確かに便利になったとはいえ、そのぶん子どもの頃に感じていたワクワク感は、一切感じられない。この頃では山菜、はたまた食べ物となる野草さえも、本来の旬を失くして栽培物になりかけている。それらを目にするたびに私から、郷愁がどんどん色褪せていくのである。ちょっとくらい不便であっても私には、やはり季節替わりに応じた野菜と果物の旬にありつきたい思いいっぱいである。食べ物にあって「旬」とは、初々しく心地良い言葉である。春野菜到来の時期にあって、せっかくの季節感が味わえないのは、きわめて大きな人類の損失である。
こんな文章でお茶を濁すようでは、いまだに再始動にはありつけず、試運転はおっかなびっくりである。季節感ときめく、「旬」がほしいこの頃の私である。春野菜! なんと心地良い言葉であろうか。二月八日(月曜日)の夜明け前、わが冬ごもりの気分はポンポンと弾んでいる。人間の知恵、すべてが良しとは言えない。