目覚めて起き出して来て、すぐに文章を書くことには、わが能力はまったく足りない。そのため、一日の始動にあっては、日々嘆くばかりである。人の能力格差、すなわちわが能力の乏しさは、おのずから生涯にわたりつきまくっている。だからと言って、今さら嘆いても埒は明かない。なぜなら、わが能力不足は生来の「身から出た錆」である。もちろん買い求めても、一〇〇円ショップに並ぶ、ペーパーやさまざまな「錆落とし」が利くはずもない。
二月九日(火曜日)、目覚めると私は、一つの成句を浮かべていた。復習するまでもなく、知り過ぎている成句であった。それでも私は、いつもの習慣に背かず、枕元に置く電子辞書に手を伸ばした。「三つ子の魂百まで」。あえて記すと、説明書きはこうである。「幼いときに形成された性格は、老年期になっても変わらないということ」。
目覚めにあってなぜ? こんな成句が浮かんだことかは、もちろんわからないし、なんらの価値もない。限り知る成句(言葉)の中から、ふと浮んだだけのことであり、強いて意味づけすれば眠気覚まし程度の役割にすぎない。しかしながら、この成句には損得掛け値なしに、「そうだ、そうだ!」と、納得せざるを得ないところがある。
私にかぎらず人の性格は、先天的(生来)に根づくものであり、後天的には修正や矯正あるいは補足など利かないところがある。確かに成句は、古来紡がれてきた人間の生き様にまつわるさまざまな証しである。人生の終焉間際にあって、こんな成句が浮かぶようでは、「なんだかなあー……」と、思うところである。
きょうの文章はこの先が書けず、これでおしまい。わが性格は生来、いい加減、ズボラ、なのであろうか。八十歳、直しようはない。表題の付けようはなく、やむなく「無題」である。春は足踏みして、寒気がぶり返している。