二月十日(水曜日)、きのうに続いて春が足踏みする、体感温度の低い夜明け前に身を置いている。しかし、寒いからと言って、もはや寒中の嘆きはない。案外、人間心理をおもんぱかっての、春の好意の悪ふざけなのかもしれない。なぜなら、本格的な春への足音は、途切れずドンドンといや増している。人間がこのところの暖かさに慣れて、あまりにものほほんとしているから、ちょっとばかり脅かしてみたくなったのであろうか。
確かに人間には、すぐに気を緩めて安きに身を置きたがる習性がある。その戒めとして人間は、あっぱれ! 古来、至当の成句(言葉)を生み出している。それらには、「喉元過ぎれば熱さを忘れる」とか、またはずばり「治に居て乱を忘れず」などの、警(いまし)めの言葉が浮んでくる。これらのほかにも、その他多しである。
これらの警句を当てはめれば日本国民は確かに、ここ数日の感染者数の漸減傾向に気を良くして、新型コロナウイルスにたいし、警戒気分を緩め始めている。しかし、人それぞれに人生行路は、「一寸先は闇の中」であることを忘れてはならない。老婆心というより、直接的にわが身の肝(きも)に常に銘じている人生訓である。
きのう(二月九日・火曜日)の私は、週一回訪れる妻の歯医者通いに、介添え役として同行した。これまでの通院は、妻の総入れ歯に向かっての土台作りにすぎなかった。具体的には残り歯を抜いたり、そののちの処置が行われていた。建築にたとえれば、役立たずの古い建物を壊しての地ならし作業にすぎない。ところが、これだけに六回ほど(一か月余)がかかったことになる。次回には、初めて二週間後の予約日が決められた。いよいよ、待ち遠しかった治療や修復処置が始まるのであろうか。
ところがこれには、適当な間隔が必要のようであり、そのためわが夫婦には、いまだに通院打ち止めの見通しが立たずじまいである。結局、現在の私たちは、歯医者通い特有の「長期通院パターン」に嵌まっている。ただ歯医者通いの良いところは、渋々でも通院を繰り返していればいずれは必ず、歯痛を免れるという、保証にありついていることである。
妻の歯医者通いどきには、二人しての買い物が兼ねられている。それは歯医者が大船(鎌倉市)の街にあり、同時にそこはわが家の普段の買い物の街だからである。この街の行き来には、定期路線「江ノ電バス」(本社、隣市・藤沢市)に、二十分ほど乗車することとなる。そのため、妻の歯医者通いの日の二人しての買い物は、まさしく「序(つい)で」である。
このところのわが単独の買い物メモの定番の一つには、「ポンカン」(郷土熊本産)がある。これに加えてきのうの私は、久しぶりに蒸かし立てホヤホヤの赤飯を買った。妻は、大ぶりのイチゴのワンパックを所定の籠に入れた。これらは、それぞれのイの一番の好物である。このところのわが家は、めでたい気分を遠ぞけられている。そのため、それぞれが好物の食べ物に託し、いっときの気分直しを願った証しと、言えそうである。好物の効き目か、どうかはわからないけれど、互いの顔には笑みがこぼれていた。好物の効き目であれば、もちろんこれで十分である。いやいや、かけたお金からすれば、棚ぼたのご褒美だった。
夜明けて日が昇れば、寒気を遠のけて早春の暖かい陽射しがそそぐであろう。季節はすでに、春爛漫である。しかし、浮かれてはいけない。なぜなら、コロナの足音、今だに消えずにある。