二月十三日(土曜日)、過ぎ行く二月のほぼ半ばにある。この二月は、大学をはじめとしてさまざまなレベルの入試と、それに関わる合否の知らせのシーズン真っただ中にある。まさしく、人生行路の始発や門出として、若人が体験する厳しい試練である。確かに、当時を顧みてもこの上ない、厳しい試練どきだった。もちろん、だれもが合格にありつけることはできない。しかし、だれしも悔いを残さない奮闘を望むところである。そうは言っても、必ず悔いが残ることは体験上知り過ぎている。
翻って現在の私は、人生の終着へ向かって試練のときにある。これまた、私にかぎらずだれしもが、避け通れない人生行路の終盤における試練である。強いて言えば質はまったく異なるけれど、厳しいことでは共に大差ない。もちろん、人生終盤の試練にあっては吉報は望めず、おおむね訪れるのは厳しい凶報(訃報)になりがちである。
冬から春への出口の胸弾むどきにあって、こんなことしか浮かばないのか! と、寝起きの私はみずからを責めている。確かに、冬は春への出口のさ中にある。昨夜の就寝時の私は、冬布団の内に重ねている毛布を跳ねのけた。毛布は、もはや用無しである。春はどこからくるのやら?……、わが身体が感じている、確かな春の訪れの証しである。欲張って、天変地異無き春の訪れを願うところである。自然界に比べて人間界は、常にバタバタしているけれど、天変地異の怖さに比べれば些細な変動である。
世評に耐えきれず辞任を決められた森会長には、いくらか同情するところもある。結局、人生行路における試練は年齢や時を択(えら)ばず、いつなんどきだれしもにも訪れる哀歌である。すると、このつらさを慰め、和らげてくれるのは、自然界の恵みであろう。この季節その先駆けは、わが周りでは梅の花の綻びと、シジュウガラやメジロの巡回飛翔がある。さらには、これらに寒椿が大団円の彩りを添えている。若人の試練どきにあってはときあたかも、つらい人心を潤す、早春の自然界の恵み横溢する、ありがたいところにある。遠吠えの老婆心をたずさえて、健闘を望むところである。名残雪だけは、真っ平御免である。