五月二十日(金曜日)、二度寝にありつけない夜が尾を引いて、私は「早起き鳥」になっている。夜明けて間もなく周回道路へ向かい、綺麗に掃除を済まして、パソコンへ向かっている。出会いは満面笑顔の高齢のご婦人と、言葉抜きに会釈を交わしただけである。そのほかのご常連の人たちとは、私のせいで出会えなかった。すなわちそれは、気狂いでもしたかのような、わが途轍もない早起き鳥のせいである。
もとより、マスク用無しと決め込んで、私は所定の掃除区域に就いた。あらためて現在、マスク用無しのありがたさが身に沁みている。裏を返せばマスク着用のわが日常は、この先どこまで続くのであろうかと、危ぶむばかりである。マスク着用は、わが身かつ人様の身を守るためだとは知りすぎている。それでも、マスク着用の日常生活には、懲り懲りするところがある。あえて、その理由を記すと、私の場合はこうである。すなわちそれは、わが耳元が三すくみの混雑の鬱陶しさに見舞われているせいである。一つは、難聴を助けるための耳掛け集音機、一つは視力補助用の眼鏡、そして一つは、新型コロナウイルス感染抑止のためのマスク着用である。このためわが耳元は、高速道路の渋滞さながらに異物まみれになっている。確かに、異物と言っては相済まない思いもある。なぜばら、集音機と眼鏡がなければわが日常生活は、にっちもさっちもいかない。マスクを着けなければ、同調圧力に遭い、非国民の誹りを免れず、これまた着けなければにっちもさっちもいかない。確かにこれらは、鬱陶しさを招く三悪人同然である。ところが現在のわが日常生活は、三悪人の加護なしにはありえない。そうは言ってもやはり、マスクだけは早く見放したい、いや早く見捨てたい思いが山々である。
日本政府もようやく、とりわけ戸外で会話の用無しのところにかぎり、マスク不着用を決め込む算段のようである。実現すれば、遅すぎた「ありがたや!」である。確かに、マスク外しの道路の掃除には、清々しい気分をオマケしてくれていた。風邪をひいているときや、インフルエンザを恐れてその防止に、かつまた新型コロナウイルスの感染抑止に、マスク着用の効用が叫ばれている。へそ曲がりの私にもこのことには、頷けるものがある。なかんずく、新型コロナウイルスの感染抑止にたいするマスク着用は、なおさら必然なものとして頷けるところはある。ただ、うんざりするところはマスク外しの展望、いまだしゆえである。結局、三悪人の中で、マスクだけは長居を、御免こうむりたいものである。
マスク無しの味を占めた、清々しい夜明けが訪れている。こんな、実のない文章、書かなければよかった。なぜなら、せっかくの清々しさが殺がれるからである。