「雉も鳴かずば撃たれまい」

 きのう一日じゅう、小雨模様にぐずついていた天候は、きょう(五月二十二日(日曜日)の夜明けにあっては、雨模様を断って回復傾向にある。その証しに大空は、ほのかに色づき始めている。こののちの大空は、時が進むにつれて様々な色彩を帯び、文字どおり絵にも描けない「天空の美」を綾なすであろう。
 無限の大空を大きな画板ととらえて、二十四色の絵の具を垂らし、絵筆を揮う書き手は、もちろんはるかかなたから光源を発する太陽である。太陽の織り成す名画を魅入る特典にありつけるのは、幸いなるかな! 「生きとし生けるもの」の中にあって、人間のみである。私も人間の端くれに浴し、「ありがたや」その恩恵を授かっている。そのお返しに私は、心中にあっては常々、声なき声で「日光、日光!」と呪文を唱えては、崇拝のしるしを露わにしている。
 わが柄でもないことを書いてしまった。もちろんこれは、ネタ無しに加えて、書き殴りという、いたずら書きのせいである。今だけでなくいつも、寝起きにあってわが脳髄は、もつれた糸の如くにこんがらがっている。こんがらがりの筆頭は、文章継続へのさ迷いである。実際のところはわが心中に、「もう書けない、もう書きたくない!」という、しどろもどろの気分が蔓延(はびこ)っている。この気分を抑え込むのは、容易なことではない。だから私は、これをどうにか抑え込む手法、いや唯一の便法として、書き殴りへ逃げ込んでいる。もとより、わが書き殴りには文章の筋立ても、意味合いもない。さらには、のどかな暇つぶしもない。すなわち、私は書き殴りにさえも、絶えず苦々としている。
 きょうの文章は、その最たる証しである。「雉も鳴かずば撃たれまい」。私も、「こんな文章、書かなければ、恥をさらすこともない」。悔やんでも、後の祭りである。太陽(朝日)は、清々しく輝き始めている。