五月十四日(土曜日)、きのうに続いて夜明けに、雨が降っている。夜明けの大空一面は、いくらかグレイがかった白絨毯を敷き詰めた雨空模様である。見ようによっては、朦々と曇っている。農家出身の私にはこの時期、二日続きの雨であっても歓迎こそすれ、気鬱にはならない。なぜなら、きのうの文章の二番煎じを用いれば、心中に美的田園(水田)風景が懐かしく甦っているからである。
しかしながら現在のわが心境は、きのうとは大違いにある。きょうの私は、端(はな)からずる休みを決意していた。決意とは、こんなときに用いる言葉ではない。もちろん、恥ずかしくはないけれど、なさけない決意である。実際には一度着いた食卓から腰を上げて二階へ逆進し、慌てふためいてパソコンを起ち上げた。それはきのう、せっかく試みた再始動を断たずに、何らかの文章を書くためであった。だから現在の私は、「馬鹿は死ななきゃ治らない」という、あわてんぼうの心境にある。
さて、こんな心境で、どんな文章が書けるであろうか? 自問するまでもなく、答えは明らかである。言うなれば、やけのやんぱちである。先日、私は周回道路をなす側壁の上の、乱れた雑草や小藪の整頓に励んだ。そのとき突如、小藪の中に、赤く熟れて食べごろの一粒の野イチゴが現れた。私は目を凝らし、神経を尖らして、指先で野イチゴに絡んでいる周囲の雑草を丁寧に抜き浚った。野イチゴは、陽射しに映えた。私には、罪作りが充満した。私は、周回道路を歩く人が目敏く見つけて童心にかえり、無邪気ないたずら心で、摘んだり、手払いしたりするのを恐れたのである。小藪の中に、そっとしておけばよかったかな! という、悔いの残る後の祭りだった。
子どもの頃の私であれば野イチゴは、手あたりしだいにわが口に運んでいた。しかし、このときの私は、そんなバカなことは慎んだ。いや実際には、しばし手を休めて佇み、フツフツと湧き出る郷愁に酔いしれていたのである。この時季、子どもの頃の私は、野辺のいたるところで、野イチゴ、木イチゴ、蛇イチゴなど、眼にしていた。そして、前の二つは、すかさずわが口へ運んでいた。後の蛇イチゴに出遭うと、毒々しい赤色に怯えて、後ずさりをした。
きのうの文章は望郷、そしてこの文章は、私に郷愁を恵んでいる。再始動の起爆剤としては心もとないけれど、ずる休みをしないでよかったと、思うところはある。先へ延ばしの朝飯前のいたずら書きである。かたじけない。