望郷、そして「ふるさと便」

 五月十三日(金曜日)、夜明けにあって、雨が降っている。この季節の雨は、無用の雨ではなく、むしろ待ち望まれる雨である。現在の雨はさしずめ、梅雨入り前、あるいは梅雨の走りの雨である。確かに、一方では鬱陶しい雨であり、人によっては、必ずしも待ち望む雨ではない。しかしながらこの時期、雨が降らなければ農家の人たちは、苗床づくりや田植えの段取りができない。その挙句、雨無しの大空を見上げては、焦燥感に駆られるばかりである。
 農家出身の私は、起き出してきては夜明けの雨空を眺めて、心中にこんな思いを浮かべている。すると、望郷は尽きず、このところのわが憂鬱気分は、とことん癒されている。望郷から賜る、確かな恩恵である。望郷こそ、私に無償のご利益を授けてくれるのである。神様が授けるご利益、はたまた「私を救ってくれる神様」と、言いたいところではある。しかし私は、不断から神様はあてにしていない。もちろん、賽銭を恵んでもなんらかのご利益にも、いまだにたったの一度さえ、ありついていないからである。言うなれば私は、神様不信の塊である。すると、すがるところは望郷、はたまたあけすけに私は、「ふるさと便」にすがっている。すなわち、あてにならない神様は、もとより無縁である。
 いよいよこの季節にあってふるさとは、田植えシーズンの始まりにある。すかさず、眼裏(まなうら)には美的田園(水田)風景が懐かしく甦っている。もちろんこの風景は、わが最期の時まで弥増(いやま)すこそすれ、無駄に尽きることはない。時代変遷のあおりを食らって、この風景にいくらの翳りをともなうのは、年中の農作業いや田植シーズンに限れば、大勢の人出から一機のトラクター作業になり替わっていることである。もちろん、両親およびその後継役を担ってきた長兄夫婦の姿はすでになく、虚しい田園(水田)風景へとなり替わっている。
 だからと言って、望郷が尽きることはない。なぜなら、実益をともなってその後継者は、ふるさとにおいてなお数多(あまた)存在する。確かに、望郷とは、心象風景の織り成す制限のない快い恩恵である。おのずから私は、常々それ以上の欲張りはしてはならないと、わが肝に銘じている。ところが人様のご好意は、わが好物を知りすぎて宅配便として、届けられてくる。すると、浅はかな私は、たちまち欲望、いや食いしん坊丸出しとなる。一方では送ってくださった人にたいして、感謝感激つのるばかりである。
 先日は思いがけなく、熊本市内に住む友人から、ふるさと便が送られてきた。甥っ子と姪っ子の好意では、春先の高菜漬けを皮切りに、タケノコ、アスパラガスなどほか、ふるさと産物が送られてきた。そしてきのうは、三個の西瓜(ブランド名:ひとりじめ)が詰まった、段ボール箱の宅配便が届いた。結局、心象風景の望郷のみならず食いしん坊の私には、幸いなるかな! ふるさと便は、春先からきのうまで、間髪を容れず「感謝感激雨あられ」の状態にある。
 沖縄地方はすでに梅雨入りし、わが心象もまたすでに梅雨入り状態にある。わが心象の梅雨入り状態の証しにはこのところ、文章を書く気分が殺がされていた。だから、望郷とふるさと便が再始動の起爆剤なればと、今朝の私は、やおらパソコンを起ち上げたのである。きょうは、ふるさとも雨の予報である。いよいよ、苗床づくりが始まるであろう。私とて喜ばずにはおれない、夜明けの雨模様である。ただ再始動は、オタオタ、モタモタである。書き殴りとはいえ、私には文章は手に負えない。