私にかぎらず文章を書く者にとって、知ったかぶりの間違いは許されない。だから私は、知りすぎていると思える語句ながら、手元の電子辞書を開いている。わが誤りを防ぎ、さらにはわが身を人様の蔑(さげす)みから守るためである。こんな簡易な語句まで、電子辞書に頼るのかと、人様が驚かれること、もとより承知の助である。もちろん、それを恥じ入ることはない。
【飛び石】:日本風の庭園の通路に伝い歩き用に少しずつ離して敷きならべた石。
【飛び石連休】:少しずつの間隔をおいて連なる連休。
きわめて簡易と思えた語句だけれど、きょう(五月六日・金曜日)の一日だけに用いれば、そんなに簡易な語句とは思えず、私には使用に迷うところがある。その起因するところは、「少しずつ」という、連なりをともなう説明のせいである。それでもやはり、きのうとあすの休日の間の、きょう一日の平常日をまたぐことからすれば、飛び石にはなるであろうか。いや、少しずつという説明からすれば、やはり、そうとは言えないのであろうか。結局、私はこんがらがり、語句の迷いに嵌っている。確かに、ゴールデンウイークにあっては、「飛び石連休」という言葉は、ほとんど耳にしない。これまた、わがあやふやな考察だけれど、三日、四日、そして五日と、国民休祭日が連なった後に、一日だけの平常日をおいて、再び週末二日の所定の休日が訪れるせいであろうか。
こんな頓珍漢のことを脳裏に浮かべて、私は朝日カンカン照りの中に、起き出している。自分自身、ほとほと「バカじゃなかろうか!」と、さ迷っている。もちろん多くの人たちは、きょう一日の平常日をさまざまに工夫を凝らして、自己都合の休日にするゆえに、ゴールデンウイークという、うれしい悲鳴にありつけるところがある。
確かに、自己都合の休日の取り方には、人それぞれにさまざまにある。オーソドックス(王道)と言えるものでは、有給休暇の取得、あるいはあらかじめ代替休日にありつけている人たちである。また、時ならぬ病、事故等で余儀なく、欠勤届や休暇届を出して、休まざるを得ない人たちである。ずる賢い休み方では無断欠勤、さらにその上では、仮病に成りすます人たちがいる。いずれにしてもきょうの平常日は、ゴールデンウイークの範疇にある。そうであれば私は、恨みっこなしに、人様が和む行楽日和を願うところである。
夜明けの日光(朝日)は、十分わが願いに応えている。しかし、人様のゴールデンウイークも手放しで、喜悦ばかりとはかぎらない。その一つは、休日疲れという、しっぺ返しである。私にはゴールデンウイークはない。しかし、わが文章はヨタヨタに疲れ切っている。自分自身、何を書いたかもわからない、「へんてこりん」の文章である。文章は難しい、私には手に負えない。「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」、いや「くわばら、くわばら」。書かなきゃ、良かった。「後の祭り」である。