喜悦無し、「ゴールデン年中」

 五月二日(月曜日)、二度寝にありつけず輾転反側(てんてんはんそく)を繰り返し、すなわち、寝返りのたうち回りして、仕方なく起き出している。私は、いまだ「草木も眠る丑三つ時(午前二時頃)」に在る。もはや、恥も外聞も厭(いと)わない老爺(ろうじ)に成り下がっている。こんな文章を書くことこそ、その明らかな証しである。もちろん、こんな文章では夜明けまでの時間潰しの足しにはならない。いやいや、恥の上塗りだけにすぎない代物である。
 今週、世の中の多くの人たちは、「待っていました!」とばかりに、ゴールデンウイークに浮かれている。そして、それらの人たちは、まるで蝶々の如く、行楽という花から花へ、飛び回っている。飛べない私は、妬んで蝶々を追っ払うすべもなく、指を咥えて遠目に眺めている。子どもの頃の私は、菜の花や田畑に飛び交う蝶々に出遭うと、まったくの遊び心で片手の掌をハエはたきのように広げては、さっと横払いをした。それだけのことであり、無理やり捕って、握り潰しはしなかった。もとより私は、そんな無慈悲なことをするような薄情者ではない。
 さて、私には期間限定のゴールデンウイークはない。もちろん、より長い、ゴールデンシーズンもない。だからと言って、嘆きはしない。いや、勿怪の幸い! 私にあるのは、期間限定無しの「ゴールデン年中(ねんじゅう)」である。ところがこれは、甚(はなは)だ曲者(くせもの)でもある。なぜなら、ゴールデン年中は、期間限定に付随する喜悦を端(はな)から葬り去っている。喜悦はやはり期間限定、いや束の間であってこそ、至上の桃源郷であり、楽園である。
 意図した時間潰しとは言え、こんな出鱈目文を書くようでは、「ひぐらしの記」は、いよいよ風前の灯火(ともしび)にある。もちろんそれは、恥を知り、それを逃れる、わが身のためである。