続編、「時のめぐりの速さ感」、そして嘆息

 きのうの「昭和の日」(四月二十九日・金曜日)にあっては、私は時の速めぐり感を書いて、遣る瀬無く嘆息した。きょうの文章はそれに輪をかけて、二番煎じさらには三番煎じとも言える続編である。しかし、あえて言えばそれらには、わが実感する確かな違いがある。きのうの場合は、一年回りにめぐってくる、ゴールデンウイークにともなう、一年の速さ感に唖然としての嘆息だった。言うなればそれは、一年という時のめぐりの速さ感に起因していた。これに加えてきょう書くのは、一月(ひとつき)と一日にともなう時のめぐりの速さ感にかかわるわが実感である。
 まずはひと月のことで言えば、それはこの現象に起因している。私にはひと月ごとに薬剤をもらうだけに余儀なく、通院を強いられているものがある。これに実感するのは、ひと月という、時のめぐりの速さ感である。私は服(の)み忘れを防ぐために、薬剤は枕元に置いている。するとよく、「あれ、もうない!」という、場面に遭遇する。そしてこのとき、私はひと月の速さ感を痛切に感じて、遣る瀬無く嘆息を吐いている。そしてそれは、明らかに自己嫌悪に陥るほどの深い嘆きである。次には、一日につきまとう時のめぐりの速さ感である。挙句、これこそ、ひしひしと実感をともなう、時のめぐりの速さ感である。
 わが人生の最大の楽しみは一日三度の御飯と、その間における甘味の駄菓子の食べ放題である。これらにともなう、時のめぐりの速さ感の実感はこうである。「朝御飯を食べればもう昼御飯、昼御飯を食べればもう晩御飯」。そして、この実感にはこんな思いが張り付いている。それは、胃部がいまだに前者の食べ物を砕いている最中にあって、後者の食べ物が喉元から垂れ流されてくるほどの時の速めぐり感である。私は歳月そして日々、いや時々刻々と、時のめぐりの速さ感に追われては、あたら余生短い命に焦燥感を募らせて、遣る瀬無く嘆息を吐いている。
 月末、四月三十日(土曜日)の夜明けの空には、きのうの冷たい雨空を撥ね退けて、のどかに朝日が照り輝いている。バカな私は、まったく抗(あらが)えない時の速めぐり感に慄(おのの)いて、やたらと遣る瀬無い嘆息を吐くばかりである。だとしたら悠久の自然界に、わがひ弱な心を癒してもらうしか便法はない。なぜなら、私には時のめぐりの速さ感を「ケ、セラセラ」と、達観する度量や勇気はない。