四月二十九日(金曜日)、きょうは令和四年(2022年)のゴールデンウイークの初日に当たる「昭和の日」(休祭日)である。とりたてて募る思いはないけれど、あえて記すと一年のめぐりの速さ感の横溢まみれにある。年齢が加わるにつれて私は、転んで怪我などの自損をこうむらないようにと、普段意識してノロ足で歩いている。もちろん叶わぬことながらできれば、歳月のめぐりもノロ足で、めぐってほしいものである。
ゴールデンウイーク初日にあっての唯一の感慨、すなわちまったくありえないわが空望みである。わが心身は文字どおり時々刻々に、時の刻みの音に脅かされている。確かに、わが日常生活に時の刻みを意識するのは、馬鹿げている愚の骨頂の最たるものである。もちろん、愚かなこととは、十分に知りすぎている。ところが一方では、寸時でもこのことを忘却することはできない。なぜなら、われのみならずだれしもの日常は、時の刻みの中に営まれている。
しかし私の場合、ゴールデンウイークは、格別時の刻みに取りつかれている。それは老いの身ゆえの、一年のめぐりにたいする遣る瀬無さとも、言えるものである。私に物見遊山や行楽の予定でもあれば案外、この遣る瀬無さはいくらか和らぐであろう。ところが実際には、それらにちなむ予定はまったく皆無である。結局、わができることは、人様の行楽シーズン入りを前にしての、わずかばかりの施しにすぎない。
きのうの私は、鎌倉めぐりのハイカーの訪れを前にして、道路の隅々を綺麗に掃除した。とりわけ、側溝に隠れているごみや、側溝に芥子粒ほどに生えている雑草の小さな根までをもことごとく引き抜いた。仕上がりの道路は、わが家の汚れている板の間を凌いで、鏡面の如くに綺麗になった。おとといは、東京へ出向いた。東京都国分寺市内に住む次兄(91歳)にたいする、表敬訪問であった。おとといときのうには、文章はずる休みに甘んじた。きょうもそのつもりであったけれど、こんな味気ない文章を書いてしまった。
わがゴールデンウイークは、茶の間のソファに背もたれて、窓ガラス越しに新緑を眺めだけになりそうである。ちょっぴり動作をともなうものでは、わが家の庭中をあてにして、山から飛んで来るコジュケイへの、ふるさと産・新米のバラマキがある。これに、日課とする道路の掃除がついて回ることとなる。こんなことでは転びようはないけれど、それでも心してゴールデンウイークの明けにありつきたいものである。ウグイスが鳴き声高らかに、エールを囀ってこれそうなことだけは請け合いである。わがゴールデンウイークの楽しみは、山の緑、コジュケイ、ウグイスなどが恵む、他力本願だけであり、自力のもたらすものはない。