「春にぞあらまし」が第28回神奈川新聞文芸コンクールで佳作
本書は高校の美術教師と大手不動産に勤務する二人の女性の恋愛を軸として展開する表題作『ユーデットの夏』、山の伝説に憑かれた中年男の恋物語を描いた『ルツェルンにて』、老学者が醍醐寺の夜桜に化かされる話を描いた『春にぞあらまし』(第二十八回神奈川新聞文芸コンクール佳作)を収録。
永年教職に就いてきた著者の周囲には、詩歌や小説、映像の世界で活躍する人たちがいて、本書に跋文を寄せている香納諒一氏は、著者の高校の教え子で、「梟の拳」「炎の影」「幻の女」など多数の作品を世に発表している今文壇で活躍中の推理作家である。また扉絵は、著者の友人である佐光千尋氏の作品で、彼は日本テレビ放映の『火曜サスペンス劇場』のプロデューサーとして活躍中であり、シリーズものである「だます女、だまされる女」「警視庁鑑識班」「霞夕子」のほか単発の企画も数多く手がけている。著者が主宰する『若紫の会』は、十七年の歳月を経て今なお「源氏物語」や「伊勢物語」など古文を読み継いでいる。
これらの環境の中で著者は、人間男女の不可思議な愛憎ドラマに挑み、意のままにならぬ鵜を操るに似て、と表現の難しさに苦闘し、新しい作品への挑戦を続けている。
八一年に初渡欧し、プラハの夜の町を歩いた著者は、当時共産圏の時代だったこの国の街角に暗い顔をしてたむろしていた学生達の青春の怒りや悲しみを見た。それは、ちょうど日本の六九年の高校紛争時に教師として向き合った著者の青春群像と重なるものがあった。
初渡欧から八年後、ベルリンの壁が決壊し、ソ連邦が解体し、ヨーロッパに大きな地殻変動が起こった。著者はそんな時代に一旅行者として再びかの地を歩いた。著者の心中には徐々にあるストーリーが熱い思いとともに出来上がっていった。
「ユーデットの夏」は、まさにこの熱い思いが醸成された作品である。日本の経済の繁栄を誇示するかのように建ち並ぶ高層建築街の一角を占める大手不動産に勤務する羽鳥冴子は、女性総合職第一号として調査部の副室長に抜擢される。人も羨む最高のオフィス・レディとして充実した人生を生きているはずの彼女を襲った不条理な愛の出逢いとは。自らの結婚に終止符を打つためにヨーロッパを旅する高校教師仁村美沙が選んだ愛の形とは。美しい音楽と映像の世界にさ迷い込んだような作品群である。