照る日、曇り日、雨の日、ぐずつくこのところの天候状態の表現である。本当はこれらに、雨まじりの小嵐を含めたいところではある。四月二十五日(月曜日)、夜明けにあってきょうの昼間は、どれに落ち着くであろうかと、いくらか思いあぐねている。なぜなら、きのうの私は、きょうの天気予報は聞きそびれている。しかしながら、夜明けの空をほのかに染め始めている朝日を見やれば、曇り、雨、そして雨まじりの小嵐のない、澄明な青空になりそうではある。
季節めぐりは日々、晩春を遠のけて初夏の走りにある。初夏の次には鬱陶しい梅雨入りと、本格的な梅雨すなわち雨の季節がひかえている。それまでは、ひと月あまりしかない。そうであれば私は、照る日、曇り日、そして雨の日などと、もったいなどつけずに、すっきりさわやかな晴れの日を望んでいる。
過ぎ行く四月を代表する鬱な季節用語には、ずばり「菜種梅雨」がある。幸いなるかな! この四月は、どうにかこの言葉は免れて、今週は五月への橋渡しにある。確かに、訪れる五月にも、鬱な「五月病」などという、似非季節用語がひかえている。いくら私がマイナス思考の塊とは言え、こんな鬱な言葉ばかりを浮かべるようでは、わが人生から面白味が殺がれている。そのため意図して私は、いっときこんな鬱な言葉などかなぐり捨てて、訪れる五月すなわち初夏にふさわしい季節用語の一つを浮かべてみた。すると、まるで一つ覚えの如くに真っ先に浮かんでいるのは、「風薫る(薫風)五月」である。次には望郷に浸り、のどかな一幕が甦る。それは、「新茶摘みの風景」である。こんな好季節がたったのひと月あまりでは、ソンソン(損々)いやまったく物足りなくて、大損である。
ところが、たとえ鬱な言葉であっても、言葉遊びに興じているわが身は、まだましで幸福である。なぜなら、きょうの寝起きにあってわが心中には、いやおうなくこんな言葉が浮かんでいた。それは表現を替えただけの、共に同義語である。すなわちそれは、「引くに引けない状態」と「膠着状態」という言葉であった。これらの言葉が浮かんでいたのは、もちろんウクライナとロシアにおける戦況を日々、テレビ映像で見せつけられているからである。戦争は、口争いや喧嘩などとは異なり、一旦戦端が開くと双方共に、「御免、降参、もう参りました。許してください!」などとは、言えないところがある。私は、この証しを現下の異国の戦況で見せつけられている。戦争は自然界が恵む好季節などそっちのけにして、人間同士が醜い争いに明け暮れる野暮な行為である。
文章を書く身の私は、いつなんどきも心中にさまざまな語句を浮かべては、めぐらしている。きょうの文章は、なんら実のないその証しである。かたじけなく、またなさけない。夜明けの朝日は時を追って天上の大海原もどきになり、胸のすく「五月晴れ」になりそうである。しかし、早や合点し「好季節到来」とうそぶくのは、虫が良すぎるであろう。異国とは言え、戦雲たなびく世界事情をかんがみれば、独り悦に入ってばかりにはおれないところ大ありである。昼間には、確かな日本晴れになりそうである。駄文に、表題のつけようはない。