四月二十四日(日曜日)、薄曇りの夜明けである。夜来の雨はなく、道路は乾いている。こんな日は、夜明け時の道路の掃除が気になるところである。
起き立て真っ先に、私はレースのカーテンを開いて、窓ガラス越しに道路に目を凝らした。すると、幸いなるかな! きのうの夕方の掃除の後の状態を留めている。日課とする夜明け時の道路の掃除を免れて、私は心安んじてパソコンに向かっている。加えていつもとは異なり、早起き鳥さながらに執筆時間はたっぷりとある。できれば薄曇りを突いて、朝日が射し始めるのを望んでいる。こんなのどかな文章を書けるのは、起き立の「至福の時」と言えそうである。しかしながらこの至福の時は、最良かつ最高の位置にはない。実際にはきのうの昼間の至福の時には負けて、それに準じている。
わが目に眩しいとは言っても、もちろん新緑は花ではない。きのうの昼間の私は、カタツムリの如く茶の間のソファに背もたれていた。目先の窓ガラスにはカーテンを掛けず、目に入る外景をほしいままにしていた。窓ガラス越しに照る陽射しは、晩春から初夏に移りつつあった。この違いは、見た目に外連味(けれんみ)なくさわやかさを感ずることである。点けっぱなしのテレビ映像は、のどかな旅番組を流していた。しかしながらわが目は、そちらにはあまり向かわず、もっぱら窓ガラス越しに見る、山の新緑に釘付けになっていた。
「目には青葉山ほととぎす初鰹」(山口素堂、鎌倉にて詠む)。このときの私は、常に手元に山積みしている駄菓子を間断なく、口に運んでいた。もちろん、苦吟する俳句など浮かべず、そのぶん無償の恵み、すなわち「至福の時」に無心に酔いしれていた。おやおや、先ほどの薄曇りは太陽に蹴散らされて、大空には朝日が射している。つれて、山の新緑は、映え始めている。きょうもまた昼間、私は至福の時を授かりそうである。時あたかも新緑の煌めきは、数々の花をも凌ぐ自然界が恵む、美的風景である。確かに、これに酔いしれる私は、いっときの果報者である。