四月二十一日(木曜日)、朝日が大空をほのかに赤く染めている、夜明け時にある。一時過ぎからとうとう、二度寝にありつけずに、夜明けを迎えている。このため寝起きの私は、憂鬱病に罹っている。
途轍もなく長い時間、眼明(めあき)きを食らっていたこの間、わが心中にはさまざまなことが出没した。いや言葉を替えれば、実際にはいろんなことがピョンピョンと跳ねて、鬱勃していた。
それらの中から一つだけ取り出すと、これである。自問を試みたのである。わが身に取りつく「愚痴こぼし」の反意語は、何だろうか。すると自答には、浮かんでは消え去る言葉の中から一つだけ残し、それは「自惚れ」と、決めたのである。もちろん、当たるも八卦、当たらぬも八卦の、出まかせ言葉の決着である。わが身に、自惚れるものは何もない。反面、愚痴こぼしの種(ネタ)はかぎりなくある。おっちょこちょいの私は、愚痴こぼしに一利を見出したのである。それはこうである。愚痴こぼしのネタがあるため、それが継続のエネルギーとなって文章は、これまで長く続いてきたのであろうか。再び記すと、確かに私には、自惚れる種(ネタ)は何もない。挙句に文章は、どん詰まりに陥り、すぐさま途絶えていたこと請け合いである。もちろん、愚痴こぼし歓迎と嘯(うそぶ)くことはできない。しかし、文章継続の僅かな足しにはなっていたようである。遣る瀬無い、自己欺瞞と言えそうである。
こんなことを寝床で、目覚めてめぐらしているようでは、もとより二度寝にありつけるわけはない。私は熟睡を欲張りはしない。うつらうつらであっても、二度寝にありつきたいだけである。