生存は一語で、「尊厳」

 四月十九日(火曜日)、久しぶりに夜明け前に起き出して、文章を書き始めている。だからと言って、長い文章は書かない。なぜならきのうは、独りよがりに長いメディアの配信ニュースの引用を試みた。このことでは、いまなお詫びたい気持ちが山々である。
 このところの天候は、疑似菜種梅雨みたいに、すっきりしない日が続いている。カーテンを開けっ放しの窓ガラス越しに見る外景は、いまだに真っ暗闇である。夜明けて、きょうの天候の兆しが気になるところである。できればきょうの午後あたりから、後れてきた晩春ののどかな陽射しを願っている。もちろん私は、欲ボケではない。大空すがりのかすかな願いである。
 さて人間は、いつの世にあっても様々な世情の渦中にある。加えて、みずからの身体に取りつく病、かつまた日常生活、すなわち暮らしぶりに様々な難渋を強いられている。いまさら気づいたわけではないけれど、人間につきまとう苦しみは、日々テレビ映像に溢れ返っている。ごく主なところでは、異国・ウクライナに観る戦禍の惨たらしさ、さらには世界中に蔓延るコロナ禍の痛ましさがある。これらだけでも十分忍びないのに、事件や事故の絶えることはない。ましてなお、どこそこに地震発生という、テロップの流れが止むことはない。
 このところの私は、あらためて生存の厳しさと、半面、尊さを実感しているところである。いや、言葉を二つに分けることなどなく、人間の生存はただ一語で、「尊厳」と言うべきであろう。夜明けて夜来の雨はあがり、ほのかに朝日が射し始めている。八十一歳、わが一日のつつがない始動は、やはりみずから寿(ことほ)ぐべきであろう。短く書くつもりの文章は、実のないだらだら文となった。「身から出た錆」、詫びることは尽きない。