侘しい、わが世の春

 四月十二日(火曜日)、起き出してきて窓ガラスを覆うカーテンを開くと、山の新緑が眩しく眼を射る。子どもの頃に早起き鳥の役割を担っていたニワトリに変わり、山に棲みつくウグイスが、「おまえは寝坊、寝坊助だ!」と、蔑みと待ち遠しさまじりの鳴き声を立てている。
 ふるさとの田園風景がよみがえる。当時、寝起き端(ばな)に見ていた、「相良山」や「内田川」を見ることはできない。私は他郷に住んでいる。いやそれのみか、そこに終の棲家を構えている。確かに、私だけではなく多くの人たちは、生誕地で生涯を暮らすことはできない。そのため、この切なさを癒してくれるのは、絶え間なく浮かべることのできる郷愁である。つまり郷愁こそ、人間に無償で与えられている快い心象風景と言えそうである。
 きのうは、咲き連なる花大根を橋に見立てて、あちらこちらへ一匹の蝶々がふわぁふわぁと、舞っていた。この光景を目にして、私は一気に郷愁をそそられた。秋に、トンボを見ることはかなわず、今やトンボは、わが眼前から消えて絶滅危惧種の恐れさえあるまぼろしになりかけている。このためとりわけ、蝶々の舞姿に郷愁と哀愁をそそられ、私はその光景をしばし、じっと眺めていた。
 季節めぐりは現在、晩春と初夏の端境期にある。ちょっと間の凪状態ゆえに、踊り場と言っていいのかもしれない。桜は花吹雪の如くに散り急いで、葉桜へ向かっている。わが世の春を謳歌した桜に変わり、ツツジやボタンなどをはじめとして、後を追って数々の花々が花替えの旺盛を極めている。きのうには、私はことし一度目の庭中の草取りを敢行した。老身には三度目までの先が、思いやられるところである。それを労わってくれるかのように、ウグイスは頭上や耳元近くで鳴き続けていた。ちょっぴり訪れている、真似事のわが世の春である。
 ところがそれには、大都会に住めなかったわが財力不足が恨めしく付き纏っていた。いやもちろん、こちらのほうがはるかに大きかった。結局私は、悔いごとをたずさえて、草取りの三種の神機の一つである、100円ショップで買い求めたプラ製の椅子をドンガメの如くにノロノロと引きずっていた。
 夜明けの空は春霞なく、見渡す限りの日本晴れである。きょうには、二日目の草取りの予定がある。二日を要するほど広い庭ではない。しかし、一日だけでは老骨が不平不満たらたらに、持たないからである。寝起きの書き殴りの文章は、七味唐辛子みたいにからいだけで、味をかみしめることはできない。庭中には一本の木の芽(山椒)と、むさくるしくノブキが散在している。わが世の春は、自然界の恩恵にすがるだけの、財無きゆえの侘しいわが家である。あえて、書くまでもないことを書いてしまった。継続の頓挫を恐れる祟りと言えそうである。