新聞とテレビ

 物心ついて以来、三度の御飯の次に位置してきた新聞購読を、ついに止めている。止めた理由には二つある。一つは、試しに止めてみても、まったく不都合がなかったからである。逆に言えばさらなる購読継続に、実益やご利益(りやく)を見いだせなかったからである。こんな遠回しの言い方はやめにしてズバリ言えば、年間五万円近くの購読料がもったいなくて、お金の無駄に思えたからである。なぜなら、医療費が嵩むおりに合わせて、一時の試しだったものをやむなく、購読中止と決断したのである。確かに、背に腹は代えられないところがあった。しかし、かなり勇気のいる決断だった。このことにより私は、長年、わが人生に供(とも)してきたメディアの一つを手放したのである。残念無念と同時に、愛惜横溢気分に見舞われていた。
 わが日常生活における新聞購読は、読書習慣のない私にあっては、唯一、似非(えせ)の読書歴を成していたのである。このことでは今なお、わが身勝手な購読中止を詫びたい思いに駆られている。実際には何度か訪れて、再度の購読を勧める人にたいして、ひれ伏したい心境をたずさえて、懇切丁寧に詫びた。
 新聞と同類項にあるメディアの一つテレビは、今なお継続中の位置にある。これまた、私だけであれば止めてもいいけれど、テレビはそうとはいかない。なぜならテレビは、妻との共有物、いや妻の独占物の位置にあるからである。妻は新聞とは違って、テレビがなければ夜・昼ないほどの猫可愛がりようである。確かに、新聞に比べればテレビは、私にとってもいまだに効用をもたらしているところはある。実際のテレビの効用は、テレビニュースにあって、なかんずく映像である。ウクライナにおける戦禍の映像を観ると、人間は愚か者と、知ることができる。一方で、避難民受け入れ状況の映像を観ると、人間は優しさの塊(かたまり)だと、知ることができる。
 もとよりわが事情、とりわけなさけない事情ではあるけれど、新聞は「百聞は一見に如かず」という成句、すなわち映像に負けたのである。もっと具体的には、記事のまどろっこしさが映像の直観に負けたのである。掲示板上にあって、このところのわが文章は、相次ぐ写真のご投稿に大負けしている。新聞とテレビ同様に、映像(写真)には勝てない証しである。いや、こちらは、わが文章の貧弱さゆえんである。引き潮の潮時、大波状態にある。