桜、散り際の戯言(ざれごと)

 四月五日(火曜日)、ようやく雨は止んで、夜明けの空には、まだらに朝日が光っている。きのうの真冬並みを超える寒気は、朝日(日光)の恩恵を得て緩んでいる。どうやら、菜種梅雨は逃れたようだ。できればきょうは、後れてきた春の陽光、さらには欲張って散り際の桜日和にありつきたいものである。
 ところが、桜の恩恵半煮えの中にあって、このところの日本列島は、所かまわず地震の頻発に見舞われている。世界にあっては異国・ウクライナにあって、隣国ロシアの侵攻いまだ止まず、西側諸国を交えて一触即発の戦争状態にある。そのうえ、新型コロナウイルスの感染状態もなお続いている。
 現下の日本社会にあっても、恐れるものは地震だけではない。寝起きにあって私は、心中にこんなことを浮かべていた。それは、こうである。わが生存中にあって、恐れるコロナの感染打ち止めはあるのであろうか。現況をかんがみれば、老婆心をたずさえた杞憂とは言えそうにない。わが恐れる感懐である。ところが、これよりはるかに高確度で、わが命をもぎ取られる恐怖は、日を替えていや時々刻々に頻発する地震である。もとより、これにはまったく抵抗できない。
 コロナに対しては過ぎた二月に、私は三度目のワクチンを打ち終えている。ワクチン効果の確かな証しはないけれど、それでも一安心の心境にはある。そうであればやはり、最も恐れるのは地震である。地震に伍して恐れるのは、のっぴきならない病の発症である。しかし、これにもわが意志では抵抗できず、さらに医者とてお手上げ状態となり、つまるところあてにならない神頼み、さらにはなおあてにならない運否天賦(うんぷてんぷ)まかせとなる。結局のところ矛盾するようだけれど、これらの怖さを免れて、それらに先んじ命に見切りをつけたい思い山々である。
 この程度の文章は、虚心坦懐すなわち淡々と書きたいものである。ところが、心中の意馬心猿(いばしんえん)に跋扈(ばっこ)されて、苦渋に満ちて書いている。わが人生のほぼ四半期(二十五年)を費やしても、文章はいまなおヨタヨタヨチヨチである。いまさら嘆いても、詮無いことではある。それでも、わが脳髄の育ち不足を悔いている。
 光っていた朝日は、煌煌と輝いている。わが人生において、朝日だけはまったくの無害である。いや、最大かつ最良のご利益(りやく)を賜っている。常々、「日光、日光!」と呪文(じゅもん)を唱えるのは、わが無償の恩返しである。