散り際の桜

 四月三日(日曜日)、夜来の花嵐、桜雨は遠のいて、花曇りの夜明けを迎えている。さしたる桜見物をすることなく季節は、花びらの散り際へ差しかかる。願い叶えば私は、桜吹雪や憎たらしい桜雨に出遭うことなく、綿雲みたいにふあふあと舞う光景を目にして、ことしの桜シーズンを終えたいものだ。
 桜の季節にあって、私が最も嫌な気分になるのは、この時、この光景である。すなわち、夜間の嵐と雨に叩き落され、夜明けの道路上に見る花びらの惨たらしい姿である。いっとき謳歌を極めた花びらは、濡れた絨毯を敷き詰めた如くに整然と、いや辺りかまわず、汚らしくべたついている。これらの光景に出遭うと私は、かぎりない切なさと、遣る瀬無さに見舞われる。もちろん、無性に腹立ちさも湧いてくる。
 現役時代の通勤時にあっては、いやおうなくそんな場面に遭遇した。所はJR横須賀線・北鎌倉駅へ向かう途中の、「明月院前通り」あたりであった。名刹と言われる禅寺・明月院は、寂びた山あいに位置している。境内を囲む山には遠目に、ぽつぽつと山桜が緑にいろどりを添えている。加えて、せせらぎと道路を分ける道路端には、数本の手植えの桜木が立っている。里桜と呼ぶほどの群れはないけれど、施行者は観光客の目の保養のために手植えしたのであろう。いや、明月院めぐりという、観光客を呼び込むための見え透いたお膳立てなのであろう。もとより明月院は桜すがりではなく、別称の「あじさい寺」をほしいままにして、アジサイを観光客おびき寄せのパンダ役にしているところである。
 小走りで駅へ向かう途中に、濡れた花びらがべたつく明月院前通りの道路を踏む私は、できるだけそれらを踏んづけないようにと、心したのである。それはしがない私ができる、ごく小さな「武士の情け」の真似事だった。桜散る季節に甦る、わが切ない哀情と言えるものである。いやそれには、一年先へ時を移す、桜の花にたいする確かなわが愛情がともなっていたのである。
 咲いて散る桜は、生まれて逝く、人の命の写し絵でもある。だから桜の花には、他人行儀ではない、情感がムクムクと湧くのである。しかし、それらの多くは悲哀である。散り際の悲哀は、なかでも格別である。