四月一日(金曜日)、そぼ降る雨の夜明け前にある。なぜ? 歳月はこうも速くめぐるのか! 別れの月・三月は、またたく間に過ぎた。きょうを初日にして、出会いの月・四月を迎えている。学び舎の式典になぞらえれば「卒業式」を終えて、今週あたりを先途にして「入学式」が営まれる。社会人にあっては、人事異動による「別れの儀式」を終えて、きょうあたりから新たな勤務先での、出会いが始まることとなる。この状況を一つの言葉を用いれば、「赴任」が浮かんでくる。別れの月と出会いの月にからむ人情と心情にたいして、これまた一語をあてれば、ずばり「悲喜交々」が浮かんでくる。これらのことでは一年の中で三月と四月は、文字どおり最も悲しみや喜びの感情があふれ出る、人間心理のありのままの露出の月と言えそうである。これすなわち、四月を迎えてのわが「感慨」である。いや、歳月の速めぐり(感)に囚われている私の場合は、言葉を変えて「慨嘆」が適当である。
このところの日本国民は、諸物価の値上げ攻勢の渦の中にある。もちろん、私もその渦中にある。しかしながら私の場合は、それを超えた嘆きにとりつかれている。その元凶は、先に記した歳月の速めぐり(感)である。確かに私は、諸物価の値上げを超えて、それに音(ね)をあげている。時あたかも好季節にあって、老いの身の悲しさ、これに尽きるところがある。じたばたしてもどうにもならないことに、「七転八倒」さながらに心を悩ますのは、わが生来の性癖、いやズバリ悪癖である。「バカは死ななきゃ治らない」。わが身に照らし、限りなく切ない成句である。
出会いの月・四月の船出は、夜来の雨の夜明けである。桜雨、これまた切ない。コロナ、戦雲、あるいは地震、人間は生きることの難しさに耐えている。わが身のみならずあまねく人間に、私は四月の月の無事を願うところである。