三月三十日(水曜日)、夜間にあって桜雨が降ったのであろうか。夜明けにあって、道路が濡れている。花に小嵐は遠のいて、のどかな花日和が訪れている。山の法面に一本、染井吉野がほんのりと咲いていたけれど、惜しむらくはおおかた花の姿を失くし散り急いでいる。手植えの染井吉野の上方、すなわち山の天辺あたりには、時あたかも山育ちの山桜がわが世の春を謳っている。一本の染井吉野は、防災用にコンクリート壁の埋め込みがあったおり工事人にたいし、私がたっての願いですがったものである。人の手がなした桜木と、山育ちの桜木の生命力の違いを、まざまざと見せつけられたようでもある。だから余計、染井吉野の散り際には、なおいっそう哀惜感極まりないものがある。古来、桜の花はよく、人間の命になぞらえてきた。いや、人間の命が、桜の花になぞらえてきた。「花ののちは短りき」。だから、人の命の裏返しでもある。
きのうの文章において私は、桜の花にまつわる言葉を説明無用に羅列した。もちろん、単なる羅列ではなく、私はそれぞれに言葉を発して、心中にはその意味をめぐらした。なぜならそれは、生涯学習と銘打っているための、常なるわが独習のならいでもある。するとそれぞれの言葉は、陳腐なく新味の情感や情趣を恵んでくれた。もちろん興趣ばかりではなく、一段と悲哀のつのる情感をも醸しだした。確かにそれらは、古来、人間が情感を織りなし、それぞれの情感で紡ぎ出してきた言葉の神髄の証しを成していた。それゆえに羅列した言葉だけに尽きるものではなく、もちろんほかにも無数の言葉が存在する。
結局、桜の花にたしてのみならず、人間の情感は、悲喜交々の感情や人情を織りなして、人間だけに与えられた崇高の宝物である。このため、人間固有の情感を失念しては、損々いや大損である。もちろん、散り急ぐ桜の花にたいしても、人間の切ない情感が渦巻いている。まして、花を蹴散らす桜吹雪に出遭っては、限りない情感が混在する。ただ単に腹立たしさだけではない、哀れみ、愛惜、切なさ入り乱れての情感である。もちろん、泣きべそをかきたくなる情感もなおさらにある。きのうの言葉遊びは、無駄ではなかった。人の命、いや、わが命を顧みる手近な捷径と言えるものだった。案外、桜の花は、わが命をいとおしむ教材なのかもしれない。
書き殴りの結末には、虚しさがともなっている。満開を極めた桜は、いよいよ散り急ぎに向かっている。ただ人の命とは違って、桜の花は一年間の我慢で再び甦る。確かに、人間の命も、後世に託すところはある。しかし、桜の花には似ず、綺麗ごとすぎて潔さはまったくない。散り急ぐ桜の花にあって、つれない桜吹雪は見栄えが良いだけで、まったく御免である。散り際を愛でて、「綿桜」という、咄嗟のわが造語を浮かべている。桜の花にたいする、現在のわが情感である。