きのうの寝起きにあっては、無理やり浮かべたネタをだらだらと、長く書いた。きょう(三月二十八日・月曜日)の寝起きにあっては、目覚めて二度寝にありつけず、皮肉にも現在、脳髄は休眠状態にある。もちろんこれではネタは浮かばず、おのずから短い文章さえお手上げ状態にある。こんなままならない日常を繰り返しながら、幸か不幸かわが人生は、やがていやすぐさま閉じる。
季節のめぐりは現在、絶好の真っただ中にある。きのうのテレビニュースは、東京の桜が「満開になった」と、伝えていた。多分、鎌倉の桜だよりも東京に並ぶはずである。私の場合は「花より団子」である。それでも、それにありつける残りの回数は、すでにカウントダウンに入っている。しかもその回数は、両掌を広げるまでもなく、片手の掌の指だけで十分である。もちろん妻とて、もはや同類項にある。
「パパ。あした、近くの花を見に行きたいね。行きましょうよ。パパは、みたくないの?」
「行ってもいいけど、行けるの?」
「わたし、行きたいのよ!」
「そうか、そんなら、連れて行くよ。おれも、もう何度しか見れないね!」
避けて通れない切ない会話である。介助のつらさがわが身に沁みる。いや、つらさと言ったら身も蓋もない。だから、つらさを悲しさに置き換えてみる。しかし、つらさと悲しさは消えない。なぜなら、現在の介助は、自分自身のちにはだれかに介助されるだろうという、つらさと悲しさを見据えている。すなわち、現在の妻への介助は、のちに私自身が介助されるおりの予行練習を兼ねてもいる。そんなこんなで介助役の私は、妻の一挙一動にわが全神経を凝らしている。
きのうに続いてきょうまた、どうでもいいことを書いた。きょうは、ここで結び文とする。きのうよりちょっぴりましなのは、意識して短い文で留め置くことである。妻のヨタヨタ足を脅かしそうにないのどかな花日和が、夜明けの空にあらわれている。朝日すなわち、「日光、日光!」と唱えて、私にはありがたさの極みにある。