三月二十七日(日曜日)、いつものことだけれど寝起きにあってのわが思考は、てんでんばらばらである。ネタ不足は、今や極限態にある。それを映して心中にはこんなこと、いやどうでもいいことが浮かんでいる。身も蓋もないけれどそれを文章にして、私はネタ不足を埋めようとしている。
わが子どもの頃のわが家は、水車を回して精米業を営み、子沢山の生業を立てていた。そのためか両親は、ことのほか「水神(すいじん)さん」を崇めていた。いくら崇めてもご利益にはありつけないことくらい知りつつも、心の支えを願っていたのかもしれない。実際のところは加護などあてにしない、「おまじない」程度のものだったであろう。もとより神様とは、ご利益を求めてひたすら祈り、身銭を切って賽銭を投じても、まったく実益にはありつけないまぼろし(幻)の存在と、言えそうである。そうとわかっていても人間心理は神様の助け、かつ限りない恩恵を求めて、日々神様を崇める心情を絶やすことはない。
これまたわが子どもの頃のわが家の朝の営みにあって、とりわけ両親は、備え付けの神棚を仰いで、深々と頭(こうべ)を垂れては合掌していた。しかし、敬虔な祈り姿ではなく、実際のところは夜明けを告げる「早起き鳥」を真似た、寝起きどきの習わしだったのであろう。何らあてにはならないと知りながら、日常茶飯事における神様すがりは、つまるところ人間の暮らし向きの困難さやつらさの写し絵であろう。そうであればやはり、神様すがりを無下にできないところもある。だとしたらもとより、神様すがりは深入りせず、確かにこんな程度でいいのかもしれない。
【天神地祇(てんしんちぎ)】、すなわち「天つ神と国つ神。すべての神々」。水神さん(水の神)、山の神、海の神(わたつみ)、さらには広く地の神)。
人間の心情の祈りだけに、人それぞれのそれを合わせれば、もとよりすがる神様の数には限りがない。他人様が難癖をつけようはなく、人それぞれに神様すがりは、確かにその程度で十分なのであろう。優しい女神もあれば、胡散臭い男神もある。日本の国には、「八百万(やおよろず)の神」が存在するという。すなわち、数値では表せない数限りない神様が存在する。そして、建前上はどの神様も、人間の味方(加護)を念じてはいる。しかしながら実際には、数々の悪神が混在する。それら、想像上の神様を含めて、卑近なところでわが最も恐れるのは、「疫病神」である。私は、疫病神には取りつかれたくない。いや、私自身が疫病神にはなりたくない。もちろん、そう呼ばれたくはない。ところが、そう呼ばれて、毛嫌いや忌避される恐れは多分にある。私自身が疫病神を成す根源は、生来わが身につきまとう愚痴こぼしとマイナス思考である。このことで人様の気分を著しく損なうことである。それゆえ私自身が、疫病神と自認するところである。
神様にすがっても「八百万の神」いても、だれひとり救ってはくれない。だから、自分自身が「拾う神」すなわち、「助ける神」にならなければ解決しない。これこそ自戒、文字どおり自らへ戒めである。こんなネタ不足逃れの思いつきの文章は、妻はもとよりだれしもそっぽを向くこと請け合いである。すでに私は、人様が忌み嫌う疫病神なのかもしれない。
夜明けの空は、穏やかな花日和である。だからと言って私は、神様のご利益とは言いたくない。のどかな朝日は、自然界が恵む確かな陽ざしである。私はへそ曲がりが高じた、疫病神なのだろうか。切なく、自問してみる。しかし、答えは自分自身ではわからない。しかし、人様へ訊く勇気は、さらさらない。