「太陽の恵み」

 皮肉にも彼岸の中日(春分の日)を挟んで春は遠のき、真冬並みの寒気に見舞われて、わが身体はブルブルと震え続けていた。きょう(三月二十四日・木曜日)の夜明けにあって春は、ようやく元へ戻り、大空から空中や地上へ、見渡すかぎりにのどかな朝日をそそいでいる。このところの私は、赤ちゃんの話し始めの一つ言葉のように、「日光、日光!」と、呪文を唱えている。もちろんそれは、太陽光線の恵みを称えて、なお欲深くそれをほしがる心境丸出しの証しでもある。
 私の場合、人間として生まれてこれまで、無償の恵みにありつけているものでは、実感的に実益的にも「太陽の恵み」がイの一番である。確かに、恩恵を得ているものにはほかにも、数えきれないほど、いや無限大にある。しかしながらそれらの多くには、金銭というコスト(費用)がともなっている。このことからだけでも私は、常々太陽を崇拝し、太陽の恵みの表れの一つである日光にたいし、かぎりなく感謝の気持ちをあらわにしている。もちろん、なんら反応のない「暖簾に腕押し」の呪文ではあるけれど、承知の助で唱えずにはおれない。
 今朝は久方ぶりに「春眠暁を覚えず」という、季節の恵みを堪能し、そのオマケで寝坊した。反面、その祟りもあって、早々と休筆を決め込んでいた。ところが、この決意を覆し、約十分間の走り書きを試みている。その誘因は、目覚めて起き出してみると、寒気は遠のいて、かつ大空は穏やかな日本晴れである。たちまち、わが心中には快い気分が充満した。心勇んで、パソコンを起ち上げた。それでも、この先は書けない。なぜなら、階下の茶の間で、妻がわが朝の支度を待っている。ご常連様各位にたいしては、かたじけなく思うところが大だけれど、「太陽の恵み」を享けて、身勝手にもわが気分は、すこぶるつきの良好である。