詫び、謝辞は尻切れトンボ

 三月十九日(土曜日)、きのうの真冬並みの氷雨をともなう寒気は遠のいて、穏やかに朝日が輝き始めている。雨は上がり、残っている雨の証しは、窓ガラスに今なお張り付いている無数の雨粒と、ほぼ平行に垂れた雨筋の幾筋である。季節は、まさしく「春彼岸」のさ中にある。
 こんな平穏な寝起きにあって私は、こんなことを心中に浮かべていた。これまで、私はたくさんの文章を書いて、わが身に余る友人、知人に恵まれた。声なき声の人たちのひそかなエールや、声ある人たちの大げさなエールをも賜った。読者の域をはるかに超えて、みなみなわが身に余る大きな励ましである。すべてが、情けと幸運である。実際にもわが生涯学習は、これらの人たちに支えられて、途轍もなく長く続いてきたのである。このことにたいして私は、ぶっきらぼうに「恩に着る」という、言葉でいいのだろうかと、大きな疑念にとりつかれている。もちろん、いいはずはない。いや私は、そんなに世間知らずの愚か者ではない。実際にはひれ伏して、謝辞を述べたい心境、山々である。
 わが生涯学習は、新たな学びにはありつけず、多くは語彙の忘却逃れと、その復習に成り下がっている。机上の電子辞書を開いた。
 【恩に着る】「恩を受けたことをありがたく思う」。「恩に受ける」:「恩に着るに同じ」。「恩に着せる」:「恩を施したことを相手にありがたく思わせるような言動をとること」。「恩に掛ける」:「恩に着せる」に同じ。「恩着せがましい」:「恩に着せて相手に感謝を強いるさまの言い方」。
 もちろん、私の場合は、「恩に着る」一辺倒である。しかしながらこれだけでは、わが心情と真情は、伝わりにくいところがある。だから、わが心象にぴったりの言葉探しをしようと、決意した。ところが好事魔多し、階段下から「パパ、早くしてよ!」と、懇願いや詰り言葉が飛んできた。「今、行くよ!」。尻切れトンボで、かたじけない。もちろん、読者各位様への謝辞の気持ちは、まったく変わらない。ただ、報いる言葉探しを棒に振るのは残念無念である。妻の言葉にも、納得するところはある。なぜなら、先ほどの朝日は、昼日中の太陽光線に変わり始めている。