啓蟄

 三月七日(月曜日)、例年だときょうあたり、カレンダー上に「啓蟄」の添え書きがある。ところが昨年末にあって私は、百円ショップでわが毎年愛用のちっぽけな卓上カレンダーを買いそびれている。私は一年間しかもほぼ毎日、見入るカレンダーを買い惜しむほどケチな愚か者ではない。何度か、馴染みのお店に足を運んだ。そのたびに出合えず、空振りを食らったのである。
 愛用とは不思議な心理状態である。同じようなものがたくさん並んでいる中にあっても、愛用しているものに出合えなければ、買いの手は伸びない。もちろん、買いそびれたわけではない。たかが、カレンダーだ! だからそののちは、意識して愛用の卓上カレンダー探しを見送っていたのである。
 そのため、寝起きにパソコンを起ち上げると、私はたちまちその祟(たた)りを被っている。実際の祟りは、「啓蟄」をきょうあたりと、言う始末である。私は手間をかけて、パソコンの検索機能にすがった。けれど、わからずじまいである。挙句には業を煮やし、こんな体たらくの文章を書く羽目になっている。
 出端(でばな)をくじかれて、気分が乗るはずはない。それゆえに、この先の文章は打ち止めである。地中の虫けらさえ蠢(うごめ)き出す好季節にあって、私は憂鬱気分に蹲(うずくま)るばかりである。ほとほとなさけないが、「捨てる神あれば拾う神あり」。祟りを食らって濡れている心中は、のどかな朝ぼらけが乾かしてくれそうである。もちろん、こんな文章には表題のつけようはない。されど、つけなければならない。ならば、先人の知恵すなわち、季節のめぐりを確(しっか)りとあらわす、「啓蟄」でいいだろう。啓蟄は、きのう、きょう、あした、いったい? いつだろうか。いい加減な文章を書いて、ほとほと恥じ入るばかりである。