三月四日(金曜日)、寝起きにあって「ウクライナ侵攻や紛争」を鑑み、私は柄でもない思いに取りつかれている。確かに、人間にとって土地は、あらゆる生活の大切な基盤である。そしてそれは、個人、法人、もちろん国家においても、一様に揺ぎ無い基盤である。
さて、土地にかかわる名称を浮かぶままに記してみる。これらとてほんの僅かなものであり、おのずからわが知識の限界を知ることとなる。まずは所有者やそれらの権利においては大雑把に、私有地、民有地、国有地などが浮かんでくる。古来、これらに絡んで大小さまざまな紛争や、もしくは大戦争が引き起こされてきた。このことでは土地は、それぞれのレベルにおいて大切な生活の基盤ゆえに、一方ではいっそうのっぴきならない悪の根源でもある。
もっとも卑近なところで隣近所の諍いの多くの基は、私有地すなわち宅地(区画)争いに絡んでいる。さて、国レベルであれば、わが薄弱な知識ではこんな言葉が浮かんでくる。すなわち、領地、領海、領空、さらには地上権、地中権、空中権などである。そして、国レベルの紛争や戦争は、総じて国土とそれにかかわる権利の奪い合いと言えそうである。
いまさらながらにこんな幼稚なことを復習したり、あらためて学習するようでは、とんでもないわが恥さらしである。そうであっても私は、現下のロシアのウクライナへの侵攻や互いの紛争、高じて戦争にでもなれば、土地(国土)争いの原点を見ているようでもある。私自身、こんなことを書いてはちっとも面白くない。しかしながら、人間にまつわる浅ましさを日々、シネマスコープで観ているようであり、書かずにおれないところがある。
国境という、国の宅地(国土)は、いったいだれが決めたのか? もちろん私は知るよしない。国境や国土という区画の割り当てがあるから、必然的に人間の知恵は、後先考えずに破天荒な「武器」をわれ先に生み出すのであろう。ところが、恐ろしいことにこの知恵は、今や天上に輝く星(無限の星空)の取り合い、奪い合いまでに加速度を強めている。やがて私は、人間から離れて、地中の骸(むくろ)となる。そのとき初めて、(おれは、人間から離れて幸福だ!)と、うそぶくようではなさけない。生存中の幸福は案外、「土地」離れがもたらすのかもしれない。
結局、人間とは醜い人の集団と言えそうである。いや、為政者だけなのかもしれない。あほらし! 人間であればこぞって、のどかな春の訪れに酔いしれたいものである。