無味乾燥、会話を失くしつつある人間社会

 現代の世と未来の世は、人間にとって途轍もなく住みにくく、生きにくくなるであろう。わがケチな実感と推測である。当たらぬも八卦当たるも八卦、幸いなるかな! わが身には、犬の遠吠え程度でさしたる影響はない。しかしながらこの傾向に加速度がつけばやはり、余生短いとはいえまったくの無傷には済まされない。現に、かなりの影響を日々被りつつある。住みにくく、生きにくい世の中をもたらす張本人となりそうなのは、あにはからんや! 人間の知恵や知能がもたらすITやAIなどの人工の技術開発とその進歩発展などによるだろう。これらによっておのずから人間社会は、人間自体の変質や変容がもたらされた挙句、本末転倒にもそれを成す人間が住みにくさや生きにくさの火の粉を浴びそうである。
 目覚めて起き出し現在、私はわが柄でもないことを書いている。きょうは二月の末日(二十八日・月曜日)、春三月を前にして私は、早や春ボケ状態にある。現下の新型コロナウイルス禍にあってわが日常の外出行動は、主に粛々と大船(鎌倉市)の街における買い物に限られている。買い物行動にあって私は、買い物コースの店のそれぞれに、レジ係の人との顔馴染みを心掛け、それによる交互の一声の掛け合いを楽しみしてきた。言うなれば交互で無言のままではわが楽しみがなく、そのため私は意識してそれを避けてきた。確かに、交互一声でありそれは、「こんにちは」「ありがとうございます」の掛け合いにすぎない。レジ客が私だけの場合は、あまのじゃくにも短く、「お元気そうですね」の言葉を重ねていた。「情けは人の為ならず」。もちろん、私自身の気分が和むための、身勝手な一声の実践にすぎない。いやこれには、私自身の小粋な計らいもある。すなわち、ベルトコンベヤー装置における流れ作業の如くに寸分も空けずに、かつ無言でレジを打つだけでは、(多分、面白くないはずだ!)という、わが余計な配慮がともなっている。
 互いに気分の和む会話は、人間社会における最大かつ最良の楽しみであろう。ところが現下の人間社会は、日に日に会話が殺がれる状態にある。そしてこの傾向は、未来いやほんのこの先に向かって、加速度を強めるであろう。卑近なところではスーパーや店舗などのレジ風景は、一足飛びに様変わりを続けている。実際のところは、人間疎外(不要)の端末機一辺倒になりつつある。あまりの変わりようで戸惑い、その場に立ち竦んでいると、監視員いや指導員らしき人がにわかに闖入(ちんにゅう)してきたて、無言で端末機に触れて足早に去っていく。支払い方法を教えていただいたことや、支払いの加勢をしていただいたことにたいし、礼を言う暇も会話もなしに去ってゆく。
 私にとって身近なところで、日々体験するつらい一幕である。結局、かぎりなく会話をなくしつつある間社会は、日々虚しさと寂しさを強勢し、増幅するばかりである。もちろんこんな世で、あっていいはずはない。ITやAI社会は、いずれはしっぺ返しを被るであろう。いや私は、早いとこ「それを」望んでいる。