ほとほと、無念

 パソコンが壊れたときは、これをみぎりにパソコン生活の打ち止めを決意していた。おのずから、長年の「ひぐらしの記」の執筆もまた擱筆となる。もちろんこのことにも、ゆるぎない決意と覚悟を固めていた。両者に疲れ切っていたせいもあってか、さらには打ち止めの潮時かなという思いが重なり、悔しさというより半面、安らぎさえおぼえていた。
 確かに、壊れたのちのいっときは、書かずに済んでいたことで、気分は安らぎを得ていた。一方では、(なんで壊れたのか)と、心中には腹立たしさが充満していた。実際のところはもっとひどく、心中は腹立たしさで煮え返っていた。悶々とする日常生活の中にあって、突然妻の入院生活に見舞われた。自分自身の歯痛も勃発した。さらには今際の時まで続く、緑内障治療薬の点眼を強いられ、難聴向けの集音機の調子も良くない状態にあった。私は、袋小路に陥った気分まみれになっていた。妻とのなさけない会話が始まった。
「パソコン、壊れたよ。金がかかるから、もう買いたくないよ。もう買わないよ。文章は書けないよ」
「パパ、パソコン買いなさいよ。パソコンくらい買いなさいよ。文章書けないのでしょ、どうするの? パソコンがなければ困るのでしょ」
「そら、困るよ。でも、もうパソコンなくてもいいよ。文章書くの、疲れているから……。買い替えれば、パソコン、値段、高いしなあ……」
「ほんとにいいの? パソコンくらい買いなさいよ。安いんでしょ……」「安くはないよ。十万円以上はするね」
「そんなにするの? でも、買いなさいよ! あんなに、パソコン使ってたじゃないのよ。止めればパパ、認知症になるわよ。わたし、困るわよ!」
「また壊れるよ」
「なんで、そんなに壊れるのよ」
 妻の自己都合の後押しがあっても、私には買うつもりはなかった。
 ところが、買ってしまった。もちろん、「買い替え」のつもりだった。買い替えのつもりだから、壊れたパソコンに入れ込んでいた情報、具体的には住所録、メールアドレス、写真類などを含むすべては、後継されるものと高をくくっていた。しかし、わが意に反し、万事休す。出張依頼の技術者は、「壊れたパソコンに内蔵の情報は、引き継げません」と、まさに「死の宣告」をした。これまでの何度かの買い替えの折には、情報はすべて後継機に引き継がれてきた。それが断たれたのである。これ以来わがパソコン生活は、まったく気乗りのしないものになっている。
 もっとも困っていることは、住所録の消失であり、それと同等なものではメールアドレスの消失がある。そんなこんなで現在使用中のパソコンは、もはやパソコンいや文明の利器とは言えない代物となっている。哀れかな! 寂れた文房具屋の中の埃まみれの帳面(ノート)、鉛筆、消しゴムの代用にすぎない。銭失い、ほとほと無念である。悔しさがほとばしり続けて、認知症だけは免れそうである。しかし、「幸い」とは言えない。