二月二十日(日曜日)。もとより、二月は短い月である。早や、一週間余りを残すのみである。とりわけ今年(令和四年・2022年)の二月には、「立春」(二月四日)から冬季「北京(中国)オリンピック」が開催されていた。きょうは、その閉幕日にあたる。この間の私は、釘付けではなかったけれど、多くの日時をテレビ観戦に費やした。このこともあってか私は、二月のこれまでの日々をことのほか短く感じていた。
感覚的には二月が早く過ぎれば、そのぶん春三月の訪れは早くなる。これ勿怪の幸いなのか、いや余生短い私の場合、季節の速めぐり(感)は、必ずしも喜ぶべきものではない。できれば、もっとゆっくり、もっとのんびりと、めぐってほしいと願うところである。一方、矛盾するけれど、寒気の強い二月は、足早に過ぎてほしいと願うところもある。私にかぎらず人間の欲得には、際限がない証しと言えよう。
この点、自然界の営みは、文字どおり自然体のままに恬淡として、ほほえましさ満杯である。ごくかぎられた視界、いや狭小な庭中にあって、梅の花は綻び、フキノトウは萌えている。寒椿にはシジュウカラを先導役にして、わが愛鳥のメジロが飛んで来る。山から番でやって来るコジュケイを目にすると、あわてて窓ガラス開き、「待て、待て……」とつぶやいては、わが家の食料のコメをばら撒いている。この定番の動作は、今やわが老夫婦のささやかな生きる喜びの一つをなしている。
二月の終盤戦を迎えて幸いなるかな、寝起きの身体には寒さが緩んでいる。そのため、ブルブル震えることなく、のんびりとキーをたたいた。しかし、世情は荒れている。新型コロナウイルスへの感染恐怖は、なお先々へ延びるばかりで、いっこうに打ち止めの兆しはない。さらには北京オリンピックの閉幕を待って、中国と友好国のロシアの戦端あるやなしやの恐怖は募るばかりである。虚々実々の駆け引き合戦は、自然界の悠然風景と比べれば、まさに人間界の馬鹿さ加減の極みである。
確かに、新型コロナウイルスは手に負えない。しかし、戦端を開くか止めるかは、手に負えるはずである。こんな愚かなことを書いて、文章を結ぶのはほとほとなさけない。あいにく雨の夜明けだが、自然界には恨みつらみは一切ない。恨みつらみをおぼえるのは、人間の無限の浅はかさ一辺倒である。