新型コロナウイルスに関して、岸田総理と政府分科会の尾身会長より、軌を一にして出口戦略が語られ始めている。コロナの終息とそののちの日本経済の舵取りは、共に願う喫緊の関心事ゆえに、半面切羽詰まった表れでもあろう。巷間に実在する市井人の私とて、もちろんそうなることを一日千秋の思いで待ち望んでいる。なぜならコロナへの感染恐怖は、発生以降こんにちにいたるまで、わが身に沁みて戦々恐々を強いられている。ましてわが身は、コロナニュースのたびに感染に強く慄く年齢層、すなわち高齢者の最上位区分にある。
わが外出行動は日を置いてのほぼ買い物行動だけゆえに、人様なかんずく群衆との接触機会はおのずから限られている。それでもやはり、街中に出向くと人様の息遣いの渦の中に否応なく身を沈めている。このため、感染の余地は多分にある。逆に、私が無症状の感染者であれば、知らずしらず人様へうつすこととなる。どちらも、甲乙つけがたい恐怖である。だから、為政者の出口戦略への関心を超えて、わが身にしたらコロナの収束から終息(打ち止め)を願っている。
確かに、コロナが収束しないかぎり、わがいやだれしもの日常生活は、霧の中どころかまったくの闇の中である。もちろん出口戦略は、日々待ち望んでいることゆえに大歓迎である。一方ではわが生存中にあって、コロナの終息はありうるのであろうかと、これまた日々危惧しているところである。
コロナの出口にたどり着かなければ、この先社会的にはなお多くの人命を亡くし、いっそう経済基盤は揺らいでゆく。きわめて、厄介な社会事情である。一方、私の場合は、マスクなしの日常生活に戻りたい一念である。なんだか身勝手な願いのようであり、わがお里の知れるところである。
「春よ来い、早く来い!」。これに呼応し、春は来た。「コロナ去れ、早く去れ!」。なんだか、空念仏の響きカラカラである。