いつの時代であっても人間は、確かに世の中に住みにくく、生きづらいものである。そうは思っても現下の社会は、生きづらい世の上位にあるのかもしれない。もちろん、日本の国のみならず総じて共通の世界事情である。伝えられてくるニュースを見聞するかぎりこれらの基因は現在、おおむね二つの世界事情にある。一つはなかなか出口や収束の見えない、新型コロナウイルスの感染蔓延事情である。そして一つはこれににわかに割って入った、ロシアのウクライナ侵攻に絡む一触即発の世界事情である。たまには柄でもないことを浮かべて、書いてみたにすぎない。
本当のところ身近な危機は、わが家の日常生活にある。しかしながら危機は、わが家のみならず世の中のだれしもにある。コロナにかかわることでは、日々の感染者数、とりわけ死亡者数の多さには、ニュースのたびに度肝を抜かされている。これにちなんで私には、腑に落ちない言葉がある。自宅療養という言葉が、すっかり意味合いを異にしている。すなわち、医療機関の診療に掛かれない人は、自宅療養という言葉の範疇にある。本来、自宅療養とは、一度は医療機関に掛かり、自宅で経過を見る言葉だったはずである。ところがコロナにかぎれば現在、医療機関で診きれない人はもとより自宅に留められて、自宅療養者としてカウントされている。結局、療養という言葉自体が異質、曖昧に用いられている。
わが下種の勘繰りにすぎないけれど、医療の逼迫、崩壊、すなわち医療危機を隠す言葉へとなり替わっている。「なんだかなあー」、と思う目覚めの悪さである。夜明けの朝日は、のどかな春の陽ざしである。私は、朝ぼらけに気分を慰められている。