冬季・北京(中国)オリンピックは、会期の終盤戦にさしかかっている。「Japan」に限らず、各国アスリート(競技者)の活躍に日々ありつけているのは、わが「生きる幸福」の一つである。
不幸にも、金・銀・銅のメダル、あるいは入賞には至らずとも、オリンピック選手になること自体、本人はもとより、身内、縁戚、友人、知人、なおそして国を挙げて名誉なことである。しかしながらオリンピック選手になることは、もちろん本人自身の能力と、さらには長年それを鍛え磨き上げた努力に負うものである。いくら周囲で支援をしたところで、本人の努力なしには到底、オリンピック選手にはなり得ない。オリンピックに限らず、大小さまざまな競技会(大会)において、勝利者にはならずとも参加にありつけること自体、本人の努力のたまものである。
一年中で最も寒い時期、すなわち一月と二月にあっては、さまざまなレベルの入試シーズンである。こちらもまた目下、終盤戦の戦いの真っただ中にある。すでに多くの受験者には、合否の厳命を下されている。あいにく、不合格通知に無念の涙を流した人も、受験までの努力は、もとより合格者に負けるものではない。確かな努力、必ずしも結果や成果とはなり得ない。人間の営み、とりわけ競争社会、サバイバルゲーム(生き残り、生存競争)における、不条理きわまる宿命である。
戦う相手が存在する競争場裏ではなくとも人間は、ただ生まれたばかりで、さまざまな努力なしには生きられない。身体を損なわず生命を健康体で保持すること、生活の糧を稼ぎ続けることなど、いやほかにもさまざまに人間は、いっときも努力なしには生きられない。そして、人みな努力の証しは、おおむね日常生活に凝縮される。
大法螺吹きまがいのことを書き連ねてきた。恥じ入るばかりである。きょう(二月十五日・火曜日)は、わが夫婦の小さな努力の成果の有無を問われる(知る日)である。妻は一月十九日に退院した。それ以降、妻は、わが家でリハビリ生活に明け暮れた。私は、かたわらで介助役を務めた。「大船中央病院(鎌倉市)」の予約時間は、午前九時半である。予約表にはレントゲン写真、そしてこののち診察とある。受験ではないけれど、このときリハビリの成果(合否)が下されるこことなる。小さな努力ではあっても、確かに人間は、努力なしには生きられない。欲得をからめてできれば入賞程度、すなわち手術をされた先生から、「だいぶ、良くなっていますね。頑張りましたね!」くらいの言葉は、おねだりしたいところである。しかし、努力、必ずしも報われない。確かに、知りすぎている、世の中の常(常識、常態)である。